》に成るかも知れぬと斯《こう》思ッた者ですから是が段々と抗《こう》じて来て終《つい》に殺して仕舞う心にも成り間《ま》がな隙がな藻西太郎に説附《ときつ》けて到頭彼れに同意させ果《はて》は手ずから短刀を授けたかも知れません、藻西太郎も初めの中は何《どう》でしたか手を更《か》え品を変えて口説かれるうちにはツイ其気になり、夫《それ》に又商売は暇になる此儘居ては身代限り可愛い女房も食《くわ》し兼る事に成るし、貧苦の恐れと女房の嘆きに心まで暗《くらん》で仕舞い何《ど》うやら斯《こう》やら伯父を殺して其身代を取る気に成たのです藻西の外《ほか》には誰も其老人を殺して利益を得る者は一人も無いと云うたでは有りませんか、若《も》し盗坊《どろぼう》ならば知らぬ事、老人を殺した奴が何一品盗まずに立去たと云う所を見れば盗坊で有りません愈々《いよ/\》藻西に限ります藻西の外に其様な事をする者の有う筈が有ません、妻が必ず彼れに吹込み此罪を犯《おかさ》せたのです」と女の口には珍《めずらし》きほど道理を推して述べ来る、其言葉に順序も有り転末も有り、目科も是に感心せしか「成るほど」とて嘆息せり、余も感心せざるにあらねど余は何分《なにぶん》にも今まで心に集めたる彼れが無罪の廉々《かど/\》を忘れ兼れば「では何《どう》ですか、藻西太郎は伯父を殺して仕舞た後で故々《わざ/\》自分の名前を書附けて置て行く程の馬鹿者ですか」唯此一点が藻西の無罪を指示す最も明かなる証拠にして又最も強き箇条なれば是には目科の細君も必ず怯《ひる》みて閉口するならんと思いしに、細君は少しも怯《ひる》まず却《かえ》ッて余の問を怪む如くに「おや自分の名前を書附たから夫《それ》で馬鹿だと仰有るのですか、私しは馬鹿には迚《とて》も出来ぬ所だろうと思いますよ余「とは又何故です細「何故とて貴方、若し其名前を書附けずに行て仕舞ば一も二も無く自分が疑われるに極ッて居ます、疑いを避けるには大胆に自分の名前を書附ける外は有ません、夫を書附て置たればこそ現に彼の仕業で有るまいと思う人が出て来たでは有ませんか、貴方にしろ爾《そう》でしょう若《も》し何《ど》うしても自分が疑われるに極ッて居るなら其疑いを避る為には充分の度胸を出し自分の仕業とは思われぬ様な事を仕て置きましょう」此の力ある言開《いいひら》きには余も殆ど怯《ひる》まんとす、図らざりき斯《かゝ》る堂々た
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