室へ這入ッた者の無いのは確かです夫は私しが受合います」
 読者よ是だけの証言を聞き余は驚かざる可《べ》き乎《か》、余は実に仰天したり、余は此時猶お年も若く経験とても積ざれば、最早や藻西太郎の犯罪は警察官の云し如く真に明々白々にて此上問うだけ無益なりと思いたり去れど目科は流石《さすが》経験に富るだけ、且《か》つは彼れ如何に口重き証人にも其腹の中《うち》に在るだけを充分|吐尽《はきつく》させる秘術を知れば猶《な》お失望の様子も無く宛《あたか》も独言《ひとりごと》を云う如き調子にて「成《な》る程昨夜藻西太郎が老人に逢《あい》に来た事は最《も》う確だな女「確かですとも、是ほど確かな事は有ません目「するとお前は藻西を見たのだね、其顔を確《しっか》り認《みとめ》たのだね女「いえ少しお待なさい、見たと云て顔を見た訳では有ません廊下へ行く所を見たのです、夫も彼れ急いで歩きましたから、何でも私に目認《みと》められまいと思う様に本統《ほんとう》に憎いじゃ有ませんか廊下の燈明《あかり》が充分で無いのを幸いちょい/\と早足に通過《とおりすぎ》ました」余は此一|節《ふし》を聞きて思わず椅子より飛離れたり、是れ実に軽々しく聞過し難き所ならん、余は殆ど堪え兼て傍《かたわら》より問を発し「若《も》し夫だけの事ならばお前が確に藻西太郎と認めたとは云われぬじゃ無いか」老女は最《いと》怪《あやし》げに余を頭の頂辺《てっぺん》より足の先まで隈《くま》なく見終り「なに貴方、仮令《たとい》当人の顔は見ずとも連て居る犬を確に見ましたもの、犬は藻西に連られて来る度《たび》に私しが可愛がッて遣《や》りますから昨夜も私しの室へ来たのです、だから私しが余物《あまりもの》を遣《やろ》うとして居ると丁度《ちょうど》其時藻西が階段の所から口笛で呼ましたから犬は泡食《あわくっ》て三階へ馳上《はせあが》ッて仕舞ました」此返事を目科は何と聞きたるにや余は彼れの顔色を読まんとするに、彼れ例の空箱にて之を避《よ》け「して藻西の犬とは何《ど》の様な犬だ」と老女に問う女「はい前額《ひたい》に少し白い毛が有るばかりで其外は真黒な番犬《ばんいぬ》ですよ、名前はプラトと云ましてね、大層気むずかしい犬なんです、知ぬ人には誰にでも※[#「口+曹」、第3水準1−15−16]《うな》りますが唯《たゞ》私しには時々食う者を貰う為め少しばかり穏《おだや》か
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