官も此証拠は争われず「あゝ大変な事を見落して居《おっ》たなア」と呟《つぶや》けり、目科は例の空《から》煙草を急ぎて其鼻に宛《あて》ながら「好《よ》く有《あ》る奴さ一番大切な証拠を一番後まで見落すとは、併《しか》し老人が自分で書《かい》たので無いとすれば事の具合が全く一変する、さア此文字は誰が書た、勿論老人を殺した奴が書たのだろう」判事と警官も一声に「爾《そう》とも爾とも目「愈々《いよ/\》爾とすれば曲者《くせもの》が老人を殺した後で自分の名を書附けると云う馬鹿はせぬなら、此曲者は無論藻西で無いと思わねばならぬ、是丈《これだけ》は誰も異存の無い所だから、此|断案《だんあん》は両君何と下さるゝか」警官は茲《こゝ》に至りて言葉無し、判事は深く考えながら「爾さ、曲者が自分の名を書ぬ事は明かだ、書《かく》のは則《すなわ》ち自分へ疑いの掛らぬ為だから、爾だ他人《たじん》に疑いを掛けて自分が夫《それ》を逃れる為めだから、此名前で無い者が曲者だ、吾々《われ/\》は曲者の計略に載られて居たのだ、藻西太郎に罪は無い、爾とすれば本統《ほんとう》の罪人は誰だろう警「爾さ誰だろう目「夫を見出すは判「目科君、君の役目だ」
 斯《か》く一同の意見が全く一変せし所へ、宛《あたか》も外より入来《いりきた》る一巡査は藻西太郎を捕縛に行きたる一人《いちにん》なる可し「唯今帰りました」の声を先に立てゝ第一に警察官の前に行き「命令通り夫々手を尽しましたが是ほど旨《うま》く行《いっ》た事は有ません警「では藻西を捕縛したか、夫《それ》は大変だが巡「はい手も無く捕縛して仕舞いました夫に彼れ全く逃れぬ所を見てか不残《すっかり》白状して仕舞いました警「や、や藻西が白状したとな」


          第四回(白状)

 罪なき人が白状する筈《はず》なければ藻西太郎が白状せしと云うを聞き一同は言葉も出ぬまでに驚き果て、中にも余の如きは只《た》だ夢かと思うばかりなりき、今まで余の集め得たる証拠は総《すべ》て彼《か》れの外《ほか》に真《まこと》の罪人あることを示せるに彼れ自ら白状したりとは何事ぞ、斯《かゝ》る事の有り得べきや、人々の中《うち》にて一番早く心を推鎮《おししず》めしは目科なり彼れ五六遍も嚊煙草の空箱を鼻に宛《あて》たる末《すえ》、件《くだん》の巡査に打向いて荒々しく「夫《それ》は全く間違いだ、お前が自分で欺さ
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