れ笑の浮ぼう筈《はず》万々《ばん/\》無く親友に話を初んとするが如き穏和の色の残ろう筈万々なし、今にも我が敵に噛附《かみつか》んずる程の怒れる面色《めんしょく》を存すべき筈ならずや。
 殊《こと》に老人の傷処《きずしょ》を検《あらた》め見れば咽《のど》を一突にて深く刺れ「苦《あっ》」とも云わずに死せしとこそ思わるれ、曲者《くせもの》の去りたる後まで生存《いきながら》えしとは認《みと》む可からず、笑の浮みしは実際にして又道理なり、血の文字を書きしとは、如何に考うるとも受取られず、あゝ余は唯《たゞ》是《これ》だけの事に気附てより、後にも先にも覚《おぼえ》なき程に打驚《うちおどろ》き胸のうち俄《にわか》に騒ぎ出《いだ》して、轟く動悸《どうき》に身も裂くるかと疑わる。
 去れば余は猶《な》お老人の傍《そば》を去る能《あた》わず、更に死体《しがい》の手を取りて検《あらた》むるに、余の驚きは更に強きを加え来《きた》れり、読者よ、老人の右の手には少しも血の痕《あと》を見ず唯《た》だ左の手の人差指のみ紅《あか》く血に塗《まみ》れしを見る、此老人は左の手にて血の文字を書きたりと云う可《べ》きか、否《いな》、否、否、左りの手にて書《かこ》う筈なし余は最早《もは》や我が心を抑《おさゆ》る能《あた》わず、我が言葉をも吐く能《あた》わず、身体に満々《みち/\》たる驚きに、余は其外の事を思う能わず、宛《あたか》も物に襲われし人の如く一|声《せい》高く叫びし儘《まゝ》、跳上《はねあが》りて突立《つったち》たり。
 余の驚き叫びし声には室中の人皆驚きしと見え、余が自ら我が声を怪みて身辺を見廻りし頃には判事も警察官も目科も書記も皆余の周囲《まわり》に立ち「何だ「何事だ「何《ど》うした「何《ど》うしました」と遽《あわた》だしく詰問《つめと》う声、矢の如く余が耳を突く、余は猶《な》お一語をも発し得ず唯《た》だ「あ、あ、あれ、あれ」と吃《ども》りつゝ件《くだん》の死体《しがい》に指さすのみ、目科は幾分か余の意を暁《さと》りしにや直様《すぐさま》死体《しがい》に重《かさな》り掛り其両手を検め見て、猶予《ゆうよ》もせずに立上り「成《なる》ほど、血の文字は此老人が書いたので無い」と言い怪む判事警察官が猶お一言《ひとこと》も発せぬうち又|蹐《せくゞ》みて死体《しがい》の手を取り其左のみ汚れしを挙《あ》げ示すに、警
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