かづ》き度《た》き望みを起し自ら制せんとして制し得ず、我心よりも猶《なお》強き一種の望みに推《お》され推されて余は警官及び判事を初め書記や目科の此|室《へや》に在るをも忘れし程なり、彼等も別に余が事には心を留めざりしならん、判事は書記に差図を与え目科は警官と密々《ひそ/\》語らう最中なりしかば、余は咎《とが》められもせず又咎めらる可しと思いもせず、最《いと》平気に、最《いと》安心して、宛《あたか》も言附られし役目を行うが如くに泰然自若として老人の死骸の許《もと》に行き、其《その》傍《そば》に跪《ひざま》ずきてそろ/\と死骸を検査し初めぬ。
 此老人歳は七十歳より七十五歳までなる可し、背低くして肉|瘠《や》せたれど健康は充分にして随分百歳までも生延得る容体とし頭髪《かみのけ》も猶《な》お白茶けたる黄色の艶を帯びて美しく、頬には一週間も剃刀《かみそり》を当ぬかと思うばかりに贅毛《むだけ》の延たれど個《こ》は死人に能《よ》く有る例しにて死したる後《のち》急に延たるものなる可く余は開剖室《かいぼうしつ》などにて同じ類《たぐい》を実見せしこと度々《たび/\》なれば別に怪《あやし》とも思わず唯《た》だ余が大《おおい》に怪しと思いたるは老人の顔の様子なり、老人の顔附は最《い》と穏《おだや》かにして笑《えみ》を浮めしとも云う可《べ》く殊《こと》に唇などは今しも友達に向いて親密なる話を初《はじめ》んとするなるかと疑わる、読者記臆せよ、老人の顔には笑こそあれ苦《くるし》みの様子は少しも存せざることを、是《こ》れ唯《た》だ一突《ひとつき》に、痛みをも苦みをも感ぜぬ中《うち》に死し去りたる証拠ならずや、余は実に爾《そ》う思いたり、此老人は突《つか》れてより顔を蹙《しか》むる間も無きうちに事切《ことぎれ》と為《な》りしなりと、若《も》し真に顔を蹙むる間も無かりしとせば如何《いか》にして MONIS《モニシ》 の五文字を其《その》床《ゆか》に書記《かきしる》せしぞ、死《しぬ》るほどの傷を負い、其痛みを堪《こら》えて我|生血《いきち》に指を染め其上にて字を書くとは一通りの事に非《あら》ず、充分に顔を蹙め充分に相《そう》を頽《くず》さん、夫《それ》のみか名を書くからには、死せし後にも此悪人を捕われさせ我が仇《あだ》を復《かえ》さんとの念あること必定《ひつじょう》なれば顔に恐ろしき怨みの相こそ現わる
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