色見えしに、実際なる此人殺しの寝室《ねま》の内には取散したる跡を見ず老人の日頃不自由なく暮し而《しか》も質素を旨《むね》として万事に注意の普《あまね》き事は是《これ》だけにて察せらる、寝床及び窓掛を初め在ゆる品物に手入|能《よ》く行届き塵《ちり》も無ければ汚れも見えず、此老人の殺されしは必ず警察官及び判事等の推量せし通り昨夜の事なりしならん、其証拠とも云う可《べ》きは寝床の用意既に整い、寝巻及び肌着ともに寝台の傍《わき》に出《いだ》しあり猶《な》お枕頭《まくらもと》なる小卓《ていぶる》の上には寝際《ねぎわ》に飲《のま》ん為なるべく、砂糖水を盛《もり》たる硝盃《こっぷ》[#ルビの「こっぷ」は底本では「こっぶ」]も其儘《そのまゝ》にして又其横手には昨日の毎夕新聞一枚と外《ほか》に寸燐《まっち》の箱一個あり、小棚の隅に置きたる燭台は其蝋燭既に燃尽《もえつく》せしかど定めし此犯罪を照したるものならん、曲者は蝋燭を吹消さずに逃去りしと見え燭台の頂辺《てっぺん》に氷柱《つらゝ》の如く垂れたる燭涙《しょくるい》は黒き汚れの色を帯ぶ、個《こ》は蝋燭の自から燃尽すまで燃居《もえい》たるしるしなり。
総《すべ》て是等《これら》の細《こまか》き事柄は殆《ほとん》ど一目にて余の眼《まなこ》に映じ尽《つく》せり、今思うに此時の余の眼は宛《あたか》も写真の目鏡《めがね》の如くなりし歟《か》、眼より直ちに種板《たねいた》とも云う可《べ》き余の心に写りたる所は最《い》と分明《ふんみょう》なるのみかは爾後《じご》幾年を経たる今日《こんにち》まで少しも消えず、余は今も猶《な》お其時の如く覚《おぼ》え居《お》れば少しの相違も無く其《その》室《へや》を描き得ん、予審判事の書記が寄れる卓子《ていぶる》の足の下に転がりて酒瓶《さけびん》の栓の在《あ》りし事をも記臆し、其《その》栓《せん》はコロップにて其一端に青き封蝋《ふうろう》の存《そん》したる事すらも忘れず、此後《こののち》千年|生延《いきのび》るとも是等の事を忘る可くも非《あら》ず、余は真に此時まで斯《か》く仔細に看《み》て仔細に心に留る事の出来ようとは自《みずか》ら思いも寄らざりき、不意の事柄にて不意に此時現れたる能力なれば我が心の如何《いかん》を詳《くわし》く思見《おもいみ》る暇《ひま》も無かりき。
我れと我が心に分らぬほど余は老人の死骸に近《ち
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