西は宵の九時頃に来て十二時頃まで居た相《そう》だ、其後では誰も老人の室へ這入《はいっ》た者が無いと云うから是ほど確な証拠は有るまい」目科は無言にて聞き終り意味有りげなる言葉にて「なるほど明かだ、日を見るよりも明かに藻西太郎と云う奴は大馬鹿だ、此老人が殺されさえすれば第一に自分は疑われる身だから、其疑いを避る様に、切《せめ》て盗坊《どろぼう》の所為《しわざ》にでも見せ掛け何か品物を盗んで置くとか此室を取散《とりちら》して置くとか夫《それ》くらいの事は仕《し》そうな者《もの》だ、老人を殺しながら夫《それ》をせぬとは余り馬鹿過ると云う者《もの》だ警察官「爾《そう》さ別に此室を取散《とりちら》すとか云う様な疑いを避ける工夫は仕て無《なか》ッた、殺すと早々逃たのだろう、余り智慧の逞《たくま》しい男では無いと見える、此向《このむき》なら捕縛すれば直《じき》に白状するだろう」と云い、猶《な》おも目科を小窓の所に誘い行きて小声にて何か話しを初め、判事は又書記に向い是《これ》も何やらん差図を与え初めたり。
第三回(又不審)
是《これ》にて先《ま》ず目科の身の上に関する不審だけは全く晴れたり、彼れは盗坊《どろぼう》にも非《あら》ず追剥にも非ず純然たる探偵吏《たんていり》なり、探偵吏なればこそ其身持不規則なりしなれ、身姿《みなり》時々変ぜしなれ、痛《いた》く細君に気遣われしなれ、「様《さん》」附《づけ》にも呼ばれしなれ、顔に傷をも受けしなれ、今は少しの不審も無し彼れが事は露ほども余が心に関せず、之に引代て唯《たゞ》痛《いた》く余の心に留り初めしは床の上の死骸なり、余が心は全く彼の死骸に縛附《しばりつけ》[#ルビの「しばりつけ」は底本では「しぱりつけ」]られたるに似たり、今まで目科を怪みたるよりも猶《な》お切に彼の死骸を思う、初て死体《しがい》を見し時の驚きと恐れとは何時《いつ》しか消えて次第に物の理を考うる力も己《われ》に復《かえ》りしかば余は唯《た》だ四辺《あたり》に在る総《すべ》ての物に熱心に注意を配り熱心に考え初めぬ、身は戸の口に立《たち》し儘《まゝ》なるも眼《まなこ》は室中《しつじゅう》を馳廻《はせまわ》れり、今まで絵入の雑誌などにて人殺《ひとごろし》の場所を写したる図などは見し事あり孰《いず》れにも其辺《そのあたり》最《い》と取散《とりちら》したる景
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