で、大きな竹刀の中に電線ほどの筋がねを三、四本入れていた。一種の国士といったような人で、昔星享が遊説に来た時、車ごと川の中へほうりこんだとかいう話もあった。最近にも大倉喜八郎の銅像の除幕式の時、そこへ飛びこんで行って大倉をなぐるのだと言って意気ごんでいたそうだが、みんなにとめられて果さなかったそうだ。
僕はそこで荒っぽい、竹刀の使いかたの大きな撃剣を教わったので、その後幼年学校にはいって、おもちゃのような細い竹刀でほんのこて先きだけでチャンチャンやるのが実にいやだった。
学校では器械体操とベースボールとに夢中になっていた。そしてこうして一日とび廻っては、大飯を食っていた。
十三の正月から十四の正月までに、背が五寸延びた。そうして十四から十五までに四寸延びて五尺二寸何分かになった。
四
中学校の校長は、先年皇子傅育官長になって死んだ、三好愛吉先生だった。
僕等は先生を孔子様とあだ名していた。それは先生が孔子様のような髯をはやしていたばかりでなく、何かというとすぐに孔子様孔子様と先生が言っていたからでもあった。先生は真面目な謹厳そのもののような顔をしていた。そして主と
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