。
やはり僕はただの一度も言葉を交したことはなかった。そして彼女と向い合って立ったのはただ次の場合の一度だけだった。
僕は父の使いで署長の官舎へ手紙を持って行った。玄関で取次ぎを乞うと、ふいと彼女が出て来た。彼女も僕も真赤になって何にも言うことができなかった。僕は黙って手紙をさし出し、彼女も黙ってそれを受取って奥へ走って行った。
彼女は唇の厚くて赤い子だった。
僕は彼女といつ、どこでどうして知ったのか覚えていない。そしてただこれだけの間柄に過ぎなかったのに、不思議にもまだその名は覚えている。
お花さんもお礼さんもいつの間にか僕の頭の中から消えてしまった。
お花さんはどうしたのか覚えていないが、お礼さんは柏崎へ行ってしまった。そのお父さんが、金鵄勲章の叙勲にもれたのに不平を言って、柏崎の連隊区に左遷されたのだった。
このお礼さんについてだけはまだ後日談がある。
中学校にはいろんな種類の人間がはいった。僕等を一番の年少者として、もう三、四年も前に高等小学校を終えて自分の家の店で坐っていた二十近いものまでもいた。もうすっかり農村の若い衆になりきっているものもはいって来た。
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