さい弟を連れて、夕方近くに練兵場へ散歩に来た。彼女はたしかに僕に会いに来るのに違いなかった。その弟を連れて来たのもそとに出る口実に違いなかった。僕は彼女の姿を見るとすぐに練兵場へ走って行った。二人は一、二間そばまで近よってかすかな微笑を交せば、それでもう事は十分に足りるのだった。彼女はそれで満足して帰った。
 光子さんと僕との間は要するにただこれだけのことに過ぎなかった。僕は光子さんと交したただの一と言も覚えていない。というよりもむしろ、お互いに言葉を交したというほどのこともかつてなかった。それでも二人は、少なくとも僕の心の中では、立派な恋人同士だったのだ。
 その後僕は彼女がどうなったか知らない。彼女の姉さんは、やはり彼女と同じように美しかったが、貧乏人の子の秀才が勉強するにはそのほかに方法はなかった、新潟の師範学校にはいっていた。彼女もやはりその姉さんと同じ運命に従ったことと思う。

 光子さんの姿が見えなくなったあとで、あるいはやはりその頃であったかも知れないが、その小さな妹を連れて、やはりたしかに僕との単なる微笑を交すために、練兵場へ散歩に来た女の子があった。警察署長の娘だった
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