新潟や長岡の中学校の食いつめものもいた。
 それらの年長者がいろんなことを僕等の間に輸入した。学校が始まってから間もなく、寄宿舎にいる二、三の年長者達が十三、四の七、八人の生徒を連れて、女郎屋へ遊びに行った。これはすぐ学校に知れてその年長者等は退校になった。それ以来、そうした方面のことはまったくなくなった。
 そして生徒の間にすぐに一番の勢力を占めたのは、他の中学校を流れ歩いて来たごろつき連中だった。この連中はみな一人ずつごく年少のそして顔の綺麗なのをその親しい友人に持った。彼等はお互いに指を切って、その血をすすり合って、義兄弟の誓いをした。
 一年の間は僕もまだそんなことは知らなかった。が、二年の末頃になって、やはりそれを覚えて、指を切ったり血をすすったりはしなかったが、一人の弟を持った。
 この風習はその後二年も三年も僕につきまとった。

 煙草を吸うこともやはりその頃に覚えた。
 父がいつも吸っている中天狗というのをちょいちょい盗んでは吸い覚えた。そしてしまいには父が大事にしてしまっている葉巻までも盗みだして吸うようになった。

   三

 中学校にはいったのと同時頃に、高等小学校の坂本先生というのが、主として軍人の間から寄附金を募って、講武館という柔道の道場を建てた。
 軍人の子は大がいそこにはいった。石川もはいった。大久保もはいった。また、前に言った威海衛の戦争の時に一週間山の中にかくれて出て来なかったという評判の、そして凱旋するとすぐ非職になった脇田という大尉の子もはいった。脇田は僕なぞと同じ級で年は二つほど多く、からだも大きかったが、僕等はその親爺のせいで馬鹿にしていた。が、ある時彼自身の口から、彼のほんとうの父は何とかという人で、金沢で大久保利通を暗殺した一人で、しかもその最初の太刀を見舞ったのだと聞いて、少し彼を尊敬したい気になった。勿論僕もはいった。
 この柔道はずいぶんよく勉強した。午後と夜と代る代るあったのだが、僕はほとんど一日も欠かしたことがなかった。ことに寒稽古には三尺も積った雪の中で乱どりをやった。成績も非常によかった。そして一年半か二年もしてからはそこでの餓鬼大将になってしまった。毎年秋の諏訪神社のお祭には、各々の町から山車が出た。そしてその山車と山車とがよく喧嘩した。鍛冶町の鍛冶屋連がこの喧嘩に負けて、翌年の復讐を期して、十人ばか
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