さい弟を連れて、夕方近くに練兵場へ散歩に来た。彼女はたしかに僕に会いに来るのに違いなかった。その弟を連れて来たのもそとに出る口実に違いなかった。僕は彼女の姿を見るとすぐに練兵場へ走って行った。二人は一、二間そばまで近よってかすかな微笑を交せば、それでもう事は十分に足りるのだった。彼女はそれで満足して帰った。
光子さんと僕との間は要するにただこれだけのことに過ぎなかった。僕は光子さんと交したただの一と言も覚えていない。というよりもむしろ、お互いに言葉を交したというほどのこともかつてなかった。それでも二人は、少なくとも僕の心の中では、立派な恋人同士だったのだ。
その後僕は彼女がどうなったか知らない。彼女の姉さんは、やはり彼女と同じように美しかったが、貧乏人の子の秀才が勉強するにはそのほかに方法はなかった、新潟の師範学校にはいっていた。彼女もやはりその姉さんと同じ運命に従ったことと思う。
光子さんの姿が見えなくなったあとで、あるいはやはりその頃であったかも知れないが、その小さな妹を連れて、やはりたしかに僕との単なる微笑を交すために、練兵場へ散歩に来た女の子があった。警察署長の娘だった。
やはり僕はただの一度も言葉を交したことはなかった。そして彼女と向い合って立ったのはただ次の場合の一度だけだった。
僕は父の使いで署長の官舎へ手紙を持って行った。玄関で取次ぎを乞うと、ふいと彼女が出て来た。彼女も僕も真赤になって何にも言うことができなかった。僕は黙って手紙をさし出し、彼女も黙ってそれを受取って奥へ走って行った。
彼女は唇の厚くて赤い子だった。
僕は彼女といつ、どこでどうして知ったのか覚えていない。そしてただこれだけの間柄に過ぎなかったのに、不思議にもまだその名は覚えている。
お花さんもお礼さんもいつの間にか僕の頭の中から消えてしまった。
お花さんはどうしたのか覚えていないが、お礼さんは柏崎へ行ってしまった。そのお父さんが、金鵄勲章の叙勲にもれたのに不平を言って、柏崎の連隊区に左遷されたのだった。
このお礼さんについてだけはまだ後日談がある。
中学校にはいろんな種類の人間がはいった。僕等を一番の年少者として、もう三、四年も前に高等小学校を終えて自分の家の店で坐っていた二十近いものまでもいた。もうすっかり農村の若い衆になりきっているものもはいって来た。
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