思った。そしてひそかに、習字の紙の圧えにする鉄の細長い「けさん」というのを懐ろに入れて、何食わん顔をして学校を出た。はたして西川は僕のあとについて来た。彼の家は僕の家とあべこべの方向にあったのだ。そして彼のあとにはその仲間の七、八名がついていた。
 僕はいつものように、衛戍病院の横から練兵場にはいった。そしてそこへはいるとすぐ右の手を懐ろに入れて用心していた。今まで大ぶ離れていたみんなが、がやがや言いながらだんだん接近して来た。悪口の挑戦がはじまった。なぐっちゃえ、なぐっちゃえ、などという声も、すぐ後ろに聞えた。僕は誰かが駈け寄って来るのを感じた。僕はけさんを握って、止まって、後ろをふり返った。西川が拳をあげて今にもなぐりかかろうとしていたのだ。僕はいきなりけさんを振りあげた。西川はちょっと後ろを向いた。その拍子に彼の頭から血がほとばしり出るように出た。みんなはびっくりして西川を取りまいた。僕は多少の心配はしながら、それでも意気揚々と引きあげて帰った。
 西川の頭にはその後二寸ばかりの大きな禿ができていた。

 それからよほど経ってからのことであるが、ある日、父が連隊から帰るとすぐその室に呼ばれた。父と母とが心配そうな顔つきをして向い合っていた。
「この頃お前学校で誰かの肩をなぐるか蹴るかしやしないか。」
 父が厳かに、しかし不安そうに、尋ね出した。父の顔には太い筋が見えていた。
 父がこんな裁判をするのは初めてのことだった。で、僕も何か非常な大事件のような気がしたが、そんな覚えは少しもなかった。僕は黙って考えていた。
「それでは何とかいう子を知らないか。」
 と、こんどは母が尋ねた。
 僕はその子は知っていた。同じ級のたしか同じ組だった。親しい友達でも何でもないが、とにかく学校で知っていた。けれどもそれがこの妙な事件と何の関係があるのか、僕にはますます分らなくなった。しかし知っているということだけは答えた。
「その子の肩をなぐるか蹴るかしやしないかい。」
 母は僕の返事を待ってさらにこう尋ねた。
「いいえ。」
 僕にはそれはますます覚えのない変なことだった。
 母はそれでようやく安心したようになって、事の顛末を詳しく話して聞かした。
 八軒町に岡田という少佐がいた。父が前に副官をしていた連隊長だ。そこの馬丁か従卒かが門前を掃除していると、学校の子供が一人通りかかっ
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