んの家を継いで、淀屋橋の近くで靴屋をしていた。僕はちょうど二十年目で米はんと会った。
「僕誰だか分る?」
 僕は店にいた米はんにいきなり声をかけた。尾行をまいて行ったので、店のものに僕が誰だかが分っても面白くないと思ったからでもあった。
「分らんでどうするものか。そんな目はうちの一族のほかにはどこにもないよ。」
 米はんは僕よりももっと大きな目を見はりながら、大げさにこう言って、奥へ導いて行った。
 お祖父さんは楠井力松と言った。和歌山の湊七曲りというところにあった、かなり大きな造り酒屋だったそうだ。子供の時から腕力人にすぐれて、悪戯がはげしく、十二の時に藩の指南番伊達何とかいう人に見出されて、その弟子となって、十八で免許皆伝を貰った。剣道、柔道、槍術、馬術、行くとして可ならざるはなく、ことに柔道はそのもっとも得意とするところであったそうだ。後、その指南番の後見のもとに、町道場を開いて、門弟五百人、内弟子百人あまりも養っていた。身の丈六尺四寸、目方四十貫という大男で、三十三で死んだのだが、その時でも三十五貫あまりあったそうだ。
「ある時、たぶんお祭の時だったろうと思うが、何でもないことにまで侍と町人との待遇があんまり違うというので怒り出して、とうとう大勢の侍を相手に大喧嘩をやって、それ以来いつも侍を敵にしては町人のために気を吐いていたんだそうだ。そしてそんなことで、とうとう家をつぶしてしまったんだね。」
 お祖父さんについての米はんの話は、ずいぶん長くもあり、また雄弁でもあった。が、僕もやはり弟と同じように、それがあんまり面白いんで大がいは忘れてしまった。

 父の家は、名古屋を距る西に四里、津島という町の近くの、越治村大字宇治というのにあった。今では、その越治村が隣り村と合併して、神守村となっている、父の家は代々その宇治の庄屋を勤めていたらしい。
 大杉という姓も、邸内に大きな杉の木があって、何とかいう殿様が鷹狩りか何かの折に立ちよられて、「大きな杉じゃなあ」と御感遊ばされたとかいうところから、それを苗字にしたのだそうだ。あんまり当てにはならない話だが。そして今でもまだ、街道から目印になるような、大きな杉の木がそこに立っている。
 父が日清戦争で留守の間に、宇治のお祖父さんが死んだというので、一日無理に学校を休ませられたことがあった。が、このお祖父さんについては、
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