権九郎とか権七郎とかいう名のほかには、何にも聞いた覚えがない。
清洲の近くにいた丹羽何とかいう老人が、このお祖父さんの弟で、少しは名のある国学者だったように聞いている。その形見の硯や水入れが家にあった。そして僕が十五の時、幼年学校にはいるんで名古屋へ行った時、第一にこの老人に会うようにと父から言いつけられて行った。
父には二人兄があった。長兄は猪といって、宇治の家を継いで、村長などをやっていた。次のは一昌といって、名古屋にいたが、そして僕が幼年学校にいた間はずいぶん世話にもなったが、何をしていたのか僕には分らなかった。折々裁判所へ出かけて行くらしいので、僕は高利貸かなとも思っていた。
お祖父さんにはどのくらい財産があったのか知らないが、その死ぬ時に、この二人の伯父と父との間にそれが分配されたらしい。そして父の分は猪伯父が管理していたのだが、伯父がいろんな事業に手を出して失敗して、自分のは勿論父の分までも無くしてしまった。
「あれがあれば、お前達二人や三人の学費くらいは楽に出るんだったがね。」
母はよくこう言っては愚痴っていた。
たぶんそんなことからだろうと思うが、父は猪伯父のことをあまり面白く思っていなかったらしい。一昌伯父についてもやはり同じようだった。
そして父や母がほんとうに親戚らしくつきあっていたのは、山田の伯母一家だけらしかった。そしてまた、僕が多少の影響を受けているのも、この山田一家からだけらしい。僕の名の栄というのも、この伯母の名のよみを取ったものだ。
しかし肉親というものはさすがに争われない。猪伯父も一昌伯父も吃った。丹羽の老人も吃ったようだ。父も少し吃った。そして僕がまた吃りだ。
二
父には学歴はまるでなかった。
ただ子供の時から本を読むのが好きで、丹羽の老人のところから本を借りて来ては読んでいた。そしてその土地の習慣で、三男の父は一時お寺にはいって坊主になっていた。が、西南戦争が始まって、初めて青雲の志を抱いて、お寺を逃げ出して上京した。
そしてまず教導団にはいって、いったん下士官になって、さらにまた勉強して士官学校にはいった。
父は少尉になると間もなく母と結婚して、丸亀の連隊へやられた。そしてそこで僕が生れた。町の名も番地も知らない。戸籍には明治十八年五月十七日生とあるが、実際は一月十七日だそうだ。当時尉官はほ
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