た。ことに佐藤などは一番の名人だった。その他にも、名古屋出身のものは大ていみなこの観海流を泳いだ。
 子供の時からよく川遊びや海遊びはやったが、ぱちゃぱちゃ騒ぎ廻るほかにまるで泳げなかった僕は、実に閉口した。そして第一日目の試験に力一ぱいでようやく二、三間泳いで、一番下の丙組へ編入された。
 古参生や同期生の助手連が、僕等の足首を握って、その観海流というのを教えた。が、僕はそれを教えられるのが癪なのと、足首を握られるのがいやなのとで、いつも逃げ廻っては我流の犬泳ぎで泳いでいた。
 それでも一週間目の第二回の試験には、僕はその犬泳ぎで千メートル泳いで、甲組にはいった。そして二週間目の最後の試験には、やはりその犬泳ぎで最大限の四千メートル泳いで、来年は助手ということになった。
 その来年には知多半島の大野へ行った。僕は名は助手でも、観海流も何にも教えることはできなかった。そして自分の受持った丙組の幾人かをただ勝手に遊ばして置いた。が、二週間目の最後の試験の時には、その中から一人、やはり我流の犬泳ぎで四千メートル泳ぎ通したのが出た。それは僕が可愛がっていた第四期生のまだほんの子供で、途中で泣きそうになるのを絶えずそばから激励して、無理やり引っぱって行ったのだった。そしてその子は、本当のゼロから出立してそこに到達した、その年のたった一人として好成績を歌われた。
 最近、汽車の中でこの男に会ったが、参謀肩章なぞをさげて立派な士官になっていた。はじめ僕はすぐ前にいるのにそれと気がつかなかったが、向うで名刺を出して見せて、「御存じでしょうな」と言われたのでやっと分った。やはり昔のように、「ハア、ハア……何とかであります」と上官にもの言うように話していた。その時にはまだ大尉だったが、この頃ではもう少佐になったろう。

   四

 僕の腕白は二年になってますますひどくなったが、それと同時にまた僕の頭を圧える奴が出て来た。それは、第一期生が出て行ったあとで初めてその頭をあげた、第二期生だった。
 僕は第一期生の「仲間」と一緒に、外套を頭からかぶって、第二期生の左翼の寝室を襲うたこともあった。また第二期生の「少年」をちょいちょいからかったこともあった。そんなことは古参生たる第二期生どもには非常な憤慨であったに違いない。そしてその少年の一人のいた石川県人どもが、まず僕を目のかたきにしだし
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