るのも、自然な生理であろうと梶はのべたが、実は、料亭そのものの方がはるかに美しく、音楽もウイーン風の庭に似合わしいのが、爽爽《すがすが》しい気持ちだった。
「今夜はひとつ、踊場を御案内いたしましょう」とヨハンは、料亭を出たとき珍らしく梶に云った。
 その踊場もこの国では一等のところだとまた彼は話し、一度ホテルへ戻ってから時間を待って、二人はある家の門をくぐっていった。中は奥深い劇場に似ていた。中央のホールを囲む客席のボックスも、全面が真赤な天鵞絨《びろうど》で張り廻《めぐら》された、一国の首都には適当な設備の完備した豪華なものだった。
 集っている踊子らもここのは数多く揃《そろ》ってみな美しかった。中でも一人|際立《きわだ》った若さで、眼の異様に大きく光る子が、もう相当に見えていた各国の旅客たちの的らしかった。梶はかち合う客らが尾を曳《ひ》いてその子の後を追う露骨さが面白かった。踊りの合い間には、どこの国でも同様の流しの芸人たちが、時間を決めて廻って来ると、ボーカル、手品と退屈の暇もなく時間はたつのだった。バンドもここのは緩急の調子も良かった。その中に、伯爵の放蕩《ほうとう》息子だという若者が一人混っていて、おどけた表情でバンド一座の采配《さいはい》を振っており、その様子がいかにも粋人のなれの果てと云いたい枯れた手腕を発揮していた。ホールの客の興奮が次第に昂《たか》まりのぼって熱して来たとき、突如として外から一団の娘たちが繰り込んで来た。そして、ホールの人人のサッと裂け開いた中へ流れ込むと、時を移さず急調子に鳴りひびいたバンドに合せ、踊り撥《は》ねる小鹿の群れのような新鮮な姿態で踊りつづけた。みな揃いの空色に、黄色な肋骨《ろっこつ》をつけた騎兵の服装で、真赤なズボンに黒い長靴を穿《は》いていた。顔にかかる滴りの飛び散るような鮮かさだった。
「この子らは市の踊子で一番権威を持っているのです。ハンガリヤの踊りです」
 と、ヨハンは云った。この十人ほどの踊りはいろいろに変化したが、間を保たせず、閃《ひら》めき変り、飜《ひるがえ》ってゆく調子の連続に訓練のこもった妙味があった。踊子らも選《え》りぬきと見えそれぞれに優劣の差のない、揃った清潔な感じがした。手穢《てあか》の染まぬ若い騎兵の襟首《えりくび》の白さにちらりとほの見える茎色の艶《つや》があった。実に眼醒《めざ》めるばかりの美しさだった。
「なかなか面白い踊りですね」
 と梶は見飽きずに云った。ヨハンもそう云われたことが嬉しいらしく、この踊りだけは観賞し直すという風に、
「日本の方が御覧になると、どの子が美しいと思われますか」
 と梶に訊ねた。
「そうだなア」
 すぐには批評しがたく笑いながら梶はまた眺めた。
「前列の右から三番目の子かな」
 揃った肋骨の迅《はや》い動きの中から一人を選ぶのは、難《むずか》しかった。殊《こと》に日本人の観賞の眼も共に選ばれていることも、この博学なヨハンの太った笑いの底にひそんでいた。 
 ハンガリヤの踊りは溌剌《はつらつ》とした空色の屈曲の連続で終ると、また踊子らは、さっと未練げもなく馳《か》け足で退場した。そうして、一団が梶らの傍を擦り崩《くず》れて走り去ろうとしたとき、ヨハンは急に手を延ばし例の右から三番目の子を呼びとめて手招きした。しかし、何の答えもなくそのまま一団は去ってしまった。ホールは再び客たちの踊りで満たされた。
 場中のどの席からも、市づきの踊子を呼ぶもののないときに、梶ひとりの席が呼びとめたその異例に、彼は顔の赧らむ思いもつよく不満だった。それも招きに応じて来たものならまだしも、振り向きもせぬ寂しさを味《あじわ》うのは、沁み入る異境の果ての心細さに変るのだった。梶は今日はたびたびの不覚だったと思い、ヨハンの立ち上るのを待ちかねながら、所在もなく、今度は眼の大きな踊子の後を追いつづける旅客たちの、乱れる様を眺めているばかりだった。
「さっきの子らは、客席へはどこへも来ないのですよ」
 とヨハンは、梶のさみしむ心を嗅《か》いだと見え、暫くしてからそう彼に説明した。
「来ないのに呼んだのですか」と彼は笑って訊ねた。
「この席へなら来ます」
「しかし、呼んだのは僕らだけじゃありませんか」と彼は少し不服も出た。
「もう来ることでしょう」
 と、ヨハンはそこが外人のこととて、日本語の遣《や》り取りの機微も分らぬらしく、至極のどかなものだった。梶には、このヨハンの大きな顔は舌のないハンガリヤの獅子に似て見えた。そしてこの席へなら踊子の来るという意味は、このホールに限り来るという意味か、それとも、日本人専門の客を扱うヨハンの席へは必ず来るという意味か、そこが梶には分らなかったが、自信をもってそう云う落ちつき払ったヨハンの態度には、明るさが増して
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