部の苦しみ悵快《ちょうおう》とした身もだえになると、その音は寝ている梶の腸《はらわた》にしみわたった。

 翌日はまたヨハンは約束の時間に顕れた。この日は昼の間街の名所や旧跡を廻った。案内しながら話すヨハンは驚くべき記憶力と彼の博学さを少しずつ謙遜《けんそん》に示し始めて来るのだった。また彼は大学で日本語を教えていること、日本へは一度も行ったことはないが、好きなため一人で日本語の勉強を始めたことなどを梶の尋ねるままに話した。街中で出会う知人たちもヨハンに示す挨拶《あいさつ》は、尊敬をふかく顕しているのを梶はしばしば目撃した。このヨハンに重ねて梶があなたはどの国の言語に一番熟達しているのかと尋ねてみると、自分は英語だと答えた。そして、
「わたくしはイギリス人の案内役もときどき頼まれますが、これは拒《こと》わっております」
 と、どうしたものか、ここだけ顔を赧《あか》くし、幾らか憤然とした語調をこめて云った。またダニューブの橋を渡るとき、ここではこの河を何と呼ぶのかと梶が質問したのに対して、ドユナと短く呼ぶとも教えた。
「この河はダニューブ、ドノウ、ドナウレスク、ドユナ、それぞれ読み方がありますが、むかしからドユナでもこの地が一番好かれますために、各民族から取り合いが激しかったところです。温泉もここだけで百二十もあります」
 こう云ってからヨハンは、橋の袂《たもと》に蹲《うずくま》っている大きな獅子《しし》の彫刻を指差し、この口を開けた獅子に舌のないことを云ってから、橋の開通式に見物が押しかけたとき、
「みなのものはこの獅子には舌がないと云って、笑いました。そうしますと、その彫刻家は自殺しました」
 と話した。ヨハンの口調は童話じみた明るい単純な響きをもっていたので、梶も思わず笑い出した。が、その明るさの下に抱いた底知れぬ話の淵《ふち》を覗《のぞ》くと、何かあるぞっとした恐怖を覚え、
「どうして自殺したのです」
 と愚かな質問をしてしまった。
「どうしてでありましょうか」
 とヨハンはでっぷりした腹部を揺《ゆす》りつつ、赧顔《あからがお》をなおからからと笑わせて一人先に橋を渡っていくのだった。
 そのヨハンの謎《なぞ》めく豪快な笑い声と、舌を落した間のぬけた感じの獅子との対象が、何となく梶には痛快な人間|諷刺《ふうし》の絵を見ている思いで、幾度も振り向き獅子の傍から去りがたかった。
 その日は王宮や古代建築を見て廻ってから、梶は不足になった金を補いたく銀行へより路《みち》した。そして、この地で入用なだけをヨハンの云うまま預金の中から出して貰うとき、不覚なことにも、日本を出発に際して銀行員の記入した紀元年数に、一年の間違いあることを指摘された。預金帳を見ると、なるほど明らかに誤記してあった。ヨハンは何事かこの地の銀行員と暫く話していてから梶に対《むか》い、
「この期日の間違いには、銀行として応じるわけには不可《いか》ないそうでありますが、あなたは日本の方ですから、特にこの度《た》びは、規則を破ってお払いすると、云いました」
 とそう云って、所用のハンガリヤ紙幣を梶にわたしてくれた。梶はふかくその銀行員の好意に感謝し銀行を出た。しかし、彼は歩きながらも、日本の銀行員の落度と、それに気附かずハンガリヤで指摘された自分の二つの落度が、忽《たちま》ち諷刺の爪《つめ》をむき立てた獅子に追われるようで暫く不愉快になるのだった。
「みなのものは、この獅子には舌がないと云って、笑いました。そうしますと、その彫刻家は自殺しました」
 自分がその獅子か彫刻家か、しかし、どちらにしても、実に梶には恐るべき童話になるのだった。特に自分の国に好意をよせ、出すべき舌を隠していてくれる場所であるだけになお彼にはこの罌粟《けし》の中の都会が恐るべきものに見えて来た。
 その夜、ヨハンは食事のとき、また昨夕とは違った料亭へ梶をつれて行って、そして云った。
「この家の料理はこの国で一等です。ハンガリヤ料理です」
 三日目に、ようやく彼はこの国の最上の料理を梶に食べさせてくれるわけだった。ここでも島の中の料亭と同じく庭の中の野天の食事だったが、別れた客席のそれぞれが、花や蕾《つぼみ》をつけた自然の蔓薔薇《つるばら》の垣根《かきね》からなる部屋で、隣席が葉に遮《さえぎ》られて見えず、どの客も中央の楽団から演奏されて来る音楽だけを愉《たの》しむ風になっていた。
「いかがですか、ここの料理は?」
 ヨハンは梶からここだけ答えを聞きたいらしかった。料理はダニューブの魚と野菜に独特な美味なものがあったが、味はどれも味噌《みそ》に似たマヨネーズで統一をつけてあるためか、梶には少し単調にすぎて塩辛《しおから》かった。原野の強烈な色彩の中で育った調味法は、塩を利《き》かす工夫に向けられ
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