罌粟《けし》の中
横光利一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)ひな罌粟《げし》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)人間|諷刺《ふうし》
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しばらく芝生の堤が眼の高さでつづいた。波のように高低を描いていく平原のその堤の上にいちめん真紅のひな罌粟《げし》が連続している。正午にウイーンを立ってから、三時間あまりにもなる初夏のハンガリヤの野は、見わたす限りこのような野生のひな罌粟の紅《くれない》に染まり、真昼の車窓に映り合うどの顔も、ほの明るく匂《にお》いさざめくように見えた。堤のすぐ向うにダニューブ河が流れていて、その低まるたびに、罌粟の波頭の間から碧《あお》い水面が断続して顕《あらわ》れる。初めは疎《まば》らに点点としていた罌粟も、それが肥え太ったり痩《や》せたりしながら、およそ一時間もつづいたと思うころ、次第に密集して襲い来た、果しない真紅のこの大群団であった。梶《かじ》はやがて着くブダペストのことを、人人がダニューブの女王といってきたことをふと思い出した。多分、ウイーンの方からこうしてきた旅人らは、このあたりの紅の波により添って流れるこの河水を眺《なが》め、自然に口からのぼった言葉だろう。こんな風景は欧洲のどこにも見なれなかった眺望《ちょうぼう》だった。自分を乗せた車の下の、レールの中までこの罌粟は生《お》い茂っているかもしれないと彼は思った。そして、暫《しばら》くはひとりぼんやりと見るには惜しくなって知人の誰彼の顔も浮んで消えたりするのだった。
彼はまた幼いころ日本でよく歌ったことのある、ダニューブの漣《さざなみ》という唱歌を思い出しもした。そのころは、自分がハーモニカを吹き、姉がヴァイオリンを弾《ひ》いて伴《とも》に愉《たのし》んだある夏の夕暮だったが、いま姉も一緒につれてここをこうして旅したなら、どんなことを姉は云い出すだろうと空想したりした。この空想は梶には非常に愉しかった。汽車の音を聞いていても、車輪の廻転していく音響がいつか少年のころのその歌に変って来たりして、河水の碧く白く日を浴びてどこまでも連っていくあたりの野の中が、
「タアン、タ、タタタン、タアンタ、タアン」
と、このような調子の歌となり、梶はしばらくそのメロディを胸中ひとり弄《もてあそ》んでみているうち、実地にそこを走っている自分のことをもう忘れた。それはちょうど、遠い流れの向うから聞えて来る草笛の音のような、甘酸っぱい感傷の情のおもむきで、ひたひたと身に迫って来る水に似た愁《うれ》いさえ伴うのだった。またこのような幼い歌の蘇《よみがえ》って来たのは、欧洲では、やはりここだけだったと思った。一つは彼は、このハンガリヤについてはそれ以外の狂躁曲《きょうそうきょく》より何も知らぬ白紙の状態で、却《かえ》ってそれが彼の曇りを拭《ふ》き払っていたのかもしれぬ。もし行くさきの野の中に、ひな罌粟と河の他《ほか》何もなくとも、これで来てみただけのことはあったと思った。
ブダペストへ着いたときは四時すぎであった。罌粟の他は山一つ見えなかった原野の中に、百数十万の近代都市がただ一つ結晶している外貌《がいぼう》の印象は、ホテルの自分の部屋へ着いてからも、まだ梶の頭から離れなかった。駅からすぐホテルへ来るまでの道に、太い街路樹の多く見えたのが先《ま》ず彼を歓《よろこ》ばしたが、それより案内された自分の部屋が何より彼の気に入った。三十畳敷もある大きな部屋で、真赤な絨氈《じゅうたん》の上に、大きな二人寝の彫刻のある麗しい寝台が二台も置いてあって、それとはまた別に休息用の寝椅子もあり、浴室も附いていた。それは特別高価な部屋でもないに拘《かかわ》らず、一瞥《いちべつ》しても、先ず梶には贅沢《ぜいたく》にすぎた豪華なものだった。高さも彼の所は適当な三階で、窓からすぐ真下の道路を傍《そば》のダニューブ河が流れていた。
しかし、残念なことに梶はこのとき、続いた汽車旅で疲労が激しかった。それに来てみたものの、一人の知人さえいるわけではなく、どこに何があるかも分らず、言葉も知らなければこの地の歴史さえ不案内だった。蒙古《もうこ》のことをモンゴロワといい、モンゴロワをフォンゴロワと読み、フォンゴロワをファンガラワ、それをまた転じてハンガリヤと化して来ている唇《くちびる》の作用から考えると、あるいはここもまた、十二世紀以来東洋の草原の英雄が、黄旗を押し立てて流れ襲って来たところかもしれなかったが、見たところ、通って来た街のここかしこの人人の様子も、どこも西洋と変らなかった。
彼は旅装を解くとすぐ寝台に横になり、疲労の恢復《かいふく》に努めることにした。そうしているときも、彼が東京を発《た》つとき、パリからここへ来たことのある
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