来た。もしこのホールに限り日本人以外の所へも来るものなら、他の客たちも呼びとめぬ筈はない、市づきの踊子らの揃った美しさだった。――しかし、梶には、この街に於《お》いてのヨハンの特殊な地位を考えぬ以上は、まだそこに呑み込めぬものが残って来た。ヨハンの人品、彼の学殖、そして、彼の通るときに知人の彼へ示す挨拶の仕方などを察するとき、梶には、ヨハンがただ者でない名を秘めた人物だということだけは早くから感じられた。また、舌のない獅子の諷刺を橋畔で示したさいにも、彼のあげたあの豪快な謎めく笑いには、際立った智量の人物が覗いていて、凡人の案内人に出来る芸当ではなかったと彼は思った。実際、この遠くへだたったハンガリヤの地で、独学で難事な日本語の勉強にいそしむためには、彼のように、こうして来る日本の旅客を捉《つかま》え、案内役を引き受ける以外に方法はないであろうと察せられる。
暫くしたときヨハンの自信は当った。そして、三番目が騎兵の服を常服に着替えて一人表の方から来ると、彼の傍へやって来た。
「この子でしょう。あなたの仰言《おっしゃ》ったのは」
とヨハンは踊子を彼の傍に坐らせて訊《たず》ねた。そうだと梶は答えるにも、跳《は》ねる騎兵の服のときとは違って静な常服の姿のためか、一見、それがそうだったのかどうか、箱の中では判明しがたい娘の変り方である。しかし、梶は何か話そうにも話がまるで通じなかった。先ずこの娘の好きな食物と飲物を取りよせてみたものの、日本の娘とよく似た淑《しと》やかな羞恥《しゅうち》を浮べ、ヨハンが何か訊ねても短い答えを云うだけだった。料理にも口をつけず、斜め対《むか》いに梶と坐っているだけで、ホールに舞い立って来ている情熱的な興奮のさ中では、彼女はむしろ、舞い落ちて来た一輪の静寂な故郷の花の色かと見え、一層深く梶は郷愁を覚えて来るのだった。
「何という名?」
梶の訊ねたのに対してヨハンが代りに、
「イレーネ」と答えた。
イレーネはヨハンにまた何か囁《ささや》くと、ヨハンはそれをまた梶に通じて、
「この子はあなたのネクタイを、いいネクタイだと賞めていますよ」と云った。
それでは君が結婚するとき、その愛人にやるネクタイを、もしこれと同じにする気があるならパリから一つ送ろうと梶は冗談を云ってみた。
ヨハンはそれをまたイレーネに告げてから、再び笑いながら、あなたに接吻をしなさいと今云ったのですよ、と梶に云った。イレーネは云われたごとくおそるおそる、梶の方へ身をよせかけて来て、そして、彼の右の頬《ほお》に唇《くちびる》を軽くつけ、ぽっと赧《あか》くなったと思うと、両手で顔を蔽《おお》って俯向《うつむ》いてしまった。
「この人は日本の娘そっくりだなあ」
と梶は笑った。そのとき、渦巻いているホールの賑やかさの中から、バンドの喇叭手《らっぱしゅ》がただ一人、濡《ぬ》れた唇に輪形をつけしきりと梶の方を向き向き、喇叭を吹いたり止めたりした。
「あっ、あの喇叭はこの子を愛しているな」
と梶は頬杖《ほおづえ》つきながら思わず洩《もら》した。すると、ヨハンはまたすぐその喇叭手を手招ぎした。喇叭は楽器を椅子の上へ置き残したまま席へ来ると、ヨハンは彼にまた梶の洩したことを話してみたらしく、
「やはりあなたの云われたようでした」
そう云って笑った。ホールはますます高潮して来た。いつの間にか踊る客らの数も増して来ていて、いっぱいにさざめき廻る渦は乱舞に近く、梶はハンガリヤ狂躁曲《きょうそうきょく》もこうした興奮の旅情から描かれたものかもしれないと思ったりした。そのうち、餅《もち》の殻が各席に配られると、客らはそれを手ん手に掴《つか》みあたり介意《かま》わず投げつけ合った。それまで静にしていたヨハンも大きな体を乗り出させて、ホールの渦を目がけて手あたり次第に投げつけては笑った。その彼の様子には、大学校教授の少年の日の腕白さがふと丸出しに顔を出し、梶も愉快で餅殻をヨハンと一緒に投げつけるのだった。
「もっとやりなさい。もっと」
と、ヨハンは餅殻をかき集めては彼にすすめて立ち上った。遠くで殻を巧みに受けとめた客は、それをまた投げ返したり、爆《はじ》け散り飛ぶ中で身を竦《すく》めたりした。
このような喧騒《けんそう》を極《きわ》めた中でも、彼の箱の一隅で、喇叭はイレーネの肩に手をかけ、何事か一心不乱のさまで彼女の耳にかき口説《くど》いてやまなかった。喇叭の腕に巻きつかれた中で、じっと竦んだまま首垂《うなだ》れてゆくイレーネの首の白さを眼にしながら、彼は寂しさを感じた。そして今度は眼の大きな踊子に狙《ねら》いをつけ餅殻を投げてみるのだった。その子の体は、周囲から飛び来る弾の集中射撃を浴びていて、身を飜す暇もなく、絶えず肩に胴に餅殻は爆けつづけていた。ぴ
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