楽団のヴァイオリンを聴《き》いた。この楽団はみな暗譜で自由な絃《げん》の動きが感じられた。生れたときからの生活そのものがヴァイオリンの弓から始まるとの事で、韻律も流れのままに荒野を生活してゆく、奔放幻怪なおもむきは強烈なものだった。案内はそれで終ったが、それはむしろ、ヨハンの好意ある案内だったといって良かった。梶はその日の早い帰りで翌日疲労を恢復した。そして、予定の五日間の滞在中は、自分からヨハンの案内料を訊ねないことにしようといよいよ決めた。
 次ぎの日の午後三時にヨハンが来た。梶はこのときはもう、二人で観に行く先のことに興味を感じるよりも、自分を引き廻して行くこのヨハンの方に興味を覚え始めたといって良い。二人はダニューブ河中にある島の料亭で夕食をすることにした。これもヨハンの考えであった。料亭は緑樹に包まれた公園の中で食事は野天である。葵《あおい》の一種のゲラニヤが真紅の花をもり咲かせた夕暮の美しさは、河波の上に迫って来る薄明の思いにもさし映り、梶はふと過ぎて来た空が慕わしく、胸に溢《あふ》れて来るのを感じた。花の紅さが空と水とに沁《し》みにじみ、水面に眼をつけてはるか遠くを仰ぐような哀愁だった。
 食事をすませると、ヨハンは行く先の註文《ちゅうもん》をしない梶に困惑したものか、またホテルへ連れて帰った。彼の部屋の下の道から、ヴァイオリンの音締《ねじ》めの音がときどき洩《も》れて来た。梶はヨハンと二人でソファに凭《よ》って話をしているとき、ダニューブの真向いの岸に月が出て来た。波が白く部屋に対《むか》って線を引き細かい網目の綾《あや》をひろげているのが、長く月を忘れていた彼には思いもうけぬ慰みとなった。
「もう始まりますよ」
 とヨハンがその時云った。
「何がです」と梶は訊ね返した。
 ヨハンは音楽だと答えた。なるほど、部屋の下の道から、月の出るのを待ち構えていたのであろう。ダニューブの漣《さざなみ》の曲の合奏が始まった。彼はヴァイオリンの音を聞きながら、ヨハンの案内の仕方も手の込んだ劇を見せる変化に苦心を払っているのだと呑み込めた。漣の曲は対岸にある王宮の上から、月の高くのぼってゆくのに随って、次第に高潮し麗しさを加えていった。
「あれを弾《ひ》いているのはジプシイたちですが、あの中でも一番の名手らです」
 とヨハンは説明した。音色に滴《したた》るような弾力が
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