あり脹《ふく》らみがあった。譜も見ず、ゆらめき出て来た月の真下で、彼等は露天にそれを仰ぎさざめく波に合せつつ弾くのだった。ヨハンは又ジプシイのこの仲間らが季節のまにまに、ヨーロッパの各地を流れ廻ってゆく生涯のことを話し、他の一切のことを考えず、ヴァイオリンのみを抱きかかえて死んで行く、彼等の宿命の愁《うれ》いや歓《よろこ》びを話したりした。
「あれらは音楽そのものですよ。本格のものもやれるのですが、やはり譜にあまり捉《とら》われてはおりません。そんなもの面白くないのでありましょう」
「ここの市民権もないのですね」
「ありません。日本語では何といいますか。渡り鳥、そう、あれです」
ヨハンの云うことは、ここしばらく渡り鳥の生活をしている彼には、特につよく胸に滲《し》みとおる語感でさみしく迫った。ダニューブの漣が終ると次ぎに、彼のまだ聞いたこともない悲調な楽器の音が流れて来た。
ヨハンはすぐ、
「あれはタローガッタといって、ハンガリヤ独特の木の楽器です。やっているものもこの国第一等の人です」と説明した。
窓から彼は下を覗《のぞ》いて見ると、真黒な尺八の形で裾《すそ》の方がやや開き加減の、クラリネットに似たものだった。
そのタローガッタの音は、初めは荒野をさまよう生活の音のようだったが、それが漸次《ぜんじ》に地にひれ伏す呻《うめ》きのように陰に籠《こも》り、太い遠吠《とおぼ》えの底おもくうねる波となり、草叢《くさむら》を震わせる絶え絶えな哀音に変ったかと思うと、押し襲ってくる雲霞《うんか》の大群のふくれ雪崩《なだ》れるような壮大な音になった。そうして断《き》れることもなく続く間にも、波うつ地表の果てもない変化が彼の頭に泛《うか》んで来るのだった。
「それでは、明日の午後、二時にまた参ります」とヨハンは急に云って音楽の途中で帰っていった。
部屋で彼ひとりにこのダニューブの月出の情緒を味《あじわ》いさせたいヨハンの、心の籠った引き上げ方だった。ひとりになってからも梶は、広すぎる二人寝台の、それも二台も連ったその一つの片隅《かたすみ》にこっそりと寝た。そして、また窓の下の音楽を聴いていたが、タローガッタはなお熄《やす》む様子もなく河の上に射す月の光に応じた。それは千里に連る原野の秘めた歴史のようであった。高鳴りひびく音が旗を巻き、崩《くず》れ散り、怨《うら》みこもる低音
前へ
次へ
全17ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング