カスの使い手のように両手を大きく翼形に開き、片膝《かたひざ》をつく姿勢で最敬礼を一度した。見たところ、大学の教授のような品威のある堂堂とした紳士である。梶も怪しみを感じなかったが、疲労の折のこととて半身を起すのも物うく、見ているままの容子《ようす》であった。
「旅のお疲《つかれ》のところを、お伺いいたします御無礼をお赦《ゆる》し下さい」
 と、この紳士は、少し飜訳《ほんやく》口調の嫌《きら》いあるとはいえ、先ずそんなに間違いのない日本語で梶に詫《わ》びてから、ヨハンというハンガリヤ名の名刺を出した。
「私はこのホテルのものではございません、日本語の勉強のため通訳といたしまして、あなたさま御滞在中の御便宜をお取りはからいいたす考えのものであります。何卒《なにとぞ》、御用お命じ下さいますなら、私ども幸いと存じるものでございます。当ホテルを本日訪問いたしますれば、あなたさまの御来訪を教えられましたにつきまして、出張いたしました。お宜《よろ》しければ、本日の午後五時半に再びここへまかり出ますから、それまで御用意下さいますなら、私の光栄でございます」
 紳士は手紙の文句を読むような調子ですらすらと述べ終ってから、暫く直立不動の姿勢で彼を見ていた。敬語の使用が少し怪しく響き、舌の廻りかねたふしぶしもあったが、久しぶりに聞く日本語のこととて梶も異様な興味をもって、すぐヨハンの案内をこちらからも申し込んだ。ヨハンは梶の疲れを察したものか、また這入って来たときのような敬礼の仕方で、廻れ右をすると、そのまますぐ外へ出ていった。梶はどこの国の街へ降りてもまだ案内人を自分から依頼したことがなかった。そして、万事ただ一人で行動していたため、この度《たび》のヨハンの不意の出現は却って不自由ささえ覚えたが、そこにハンガリヤらしい愛情のひそみあるものも感じ、不審を起さず一切彼のいうままに随《したが》って見ようと決めてから、再び寝台に身を倒した。しかし、考えてみると、まだ案内の値も訊《き》き質《ただ》さなかった落度が自分にあった。そこに多少の不安さも感じられたが、とにかく、相手はハンガリヤ人である上に、珍しく日本語を解している人物だという点でも、疑ってはならぬ貴重な人だと梶は思った。
 この夜ヨハンの案内してくれた場所は料亭で、食事をしてから後に、最少は五歳、最年長は二十歳の二十数人からなるジプシイ
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