医者の友人が、
「とにかく、あなたはハンガリヤへだけは、ぜひ行って来なさいよ。あそこは良い」
とそう云ったことを思い出したりして、疲れの溜《たま》った背中の痛みの容易に去りそうもないのがまどろかしく感じた。
「良いというと?」
と梶はそのときまた医者に訊《たず》ね返したのも、彼のそう云う表情には、歓喜の情ともいうべき思わず閃《ひら》めく美しいものが発したからだった。
「いや、あそこほど美人の多いところはない。それに日本人のもてること、もてること、もう滅茶苦茶にもてる」
医者はこう特別に強い表現で云ってまだ何か足らぬらしく、深く顎《あご》を胸へつけ、なお思い出の深い感動を顕《あらわ》そうとしかけたところへ、突然他の知人が傍へよって来て、まったく別の話をし始めたので、梶と医者とのハンガリヤに関する話は、そのままに立ち消えになってしまったことがある。
梶は寝ながらも今こそ医者の、顎を胸へ埋めようとした刹那《せつな》の表情を思うと、途中の車窓から見えた群がる真紅のひな罌粟が眼に浮び、あの花の中から何が出て来るのかと、多少の好奇心もまた覚えた。またこの友人の医者とは別の人人たちにも、梶はパリでハンガリヤのことについて尋ねてもみたが、みな同様に、
「あそこは良いということだが」
とただそう云うだけで、行ってみたという日本人は一人もなかった。しかし、日本人がひどくそこでは好かれるということについては誰もが異口同音で、自分も行きたいと洩したことに違いのなかったことも確かだった。それも、梶はいつの間にか今そこに自分がいるのだった。梶は西洋を廻ってみて、世界の内容はどこも変らず損得の理念に左右されていることをますます明瞭《めいりょう》に感じていたときしも、ここだけは不思議と好き嫌《きら》いで動いている部面が表情にも顕れていて、寝ているときのこうした背中の痛みさえ、そんな気の弛《ゆる》みも手伝っているのかもしれないと思ったりした。しかし、ここは通って来た道すじを考えただけでもあまりに遠ざかった感じだった。実にはるかな遠くに日本が見えて寂しかった。
夕食まで彼はひと眠りしたいと思っているとき、ノックの音がした。梶はホテルの者だろうと思って黙っていると、肥満した赧顔《あからがお》の男が一人勝手に這入《はい》って来た。片手に自分の帽子を持ってにこにこしながら傍まで来てから、男はサー
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