自分のことをもう忘れた。それはちょうど、遠い流れの向うから聞えて来る草笛の音のような、甘酸っぱい感傷の情のおもむきで、ひたひたと身に迫って来る水に似た愁《うれ》いさえ伴うのだった。またこのような幼い歌の蘇《よみがえ》って来たのは、欧洲では、やはりここだけだったと思った。一つは彼は、このハンガリヤについてはそれ以外の狂躁曲《きょうそうきょく》より何も知らぬ白紙の状態で、却《かえ》ってそれが彼の曇りを拭《ふ》き払っていたのかもしれぬ。もし行くさきの野の中に、ひな罌粟と河の他《ほか》何もなくとも、これで来てみただけのことはあったと思った。
ブダペストへ着いたときは四時すぎであった。罌粟の他は山一つ見えなかった原野の中に、百数十万の近代都市がただ一つ結晶している外貌《がいぼう》の印象は、ホテルの自分の部屋へ着いてからも、まだ梶の頭から離れなかった。駅からすぐホテルへ来るまでの道に、太い街路樹の多く見えたのが先《ま》ず彼を歓《よろこ》ばしたが、それより案内された自分の部屋が何より彼の気に入った。三十畳敷もある大きな部屋で、真赤な絨氈《じゅうたん》の上に、大きな二人寝の彫刻のある麗しい寝台が二台も置いてあって、それとはまた別に休息用の寝椅子もあり、浴室も附いていた。それは特別高価な部屋でもないに拘《かかわ》らず、一瞥《いちべつ》しても、先ず梶には贅沢《ぜいたく》にすぎた豪華なものだった。高さも彼の所は適当な三階で、窓からすぐ真下の道路を傍《そば》のダニューブ河が流れていた。
しかし、残念なことに梶はこのとき、続いた汽車旅で疲労が激しかった。それに来てみたものの、一人の知人さえいるわけではなく、どこに何があるかも分らず、言葉も知らなければこの地の歴史さえ不案内だった。蒙古《もうこ》のことをモンゴロワといい、モンゴロワをフォンゴロワと読み、フォンゴロワをファンガラワ、それをまた転じてハンガリヤと化して来ている唇《くちびる》の作用から考えると、あるいはここもまた、十二世紀以来東洋の草原の英雄が、黄旗を押し立てて流れ襲って来たところかもしれなかったが、見たところ、通って来た街のここかしこの人人の様子も、どこも西洋と変らなかった。
彼は旅装を解くとすぐ寝台に横になり、疲労の恢復《かいふく》に努めることにした。そうしているときも、彼が東京を発《た》つとき、パリからここへ来たことのある
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