通ると、父は体を少し起した。
「よ光、一人で見て来いや。もう今夜で終ひやぞ。」
「もう雨が降るしよしませう。」
子はさう云つて二階へ来ると窓の敷居に腰をかけた。下腹から力が脱けてゐた。
空はそれなり雨を落とさずに何時の間にか薄明かるくなって来た。その下に東山がある。その向ふに京都の街がある。
二十分程して、他所行きの着物を着た母が腰帯のまま二階へ来た。行くんだなと子は思ふと、気が浮いて、
「何処へ行くの?」と訊いた。
母は黙つて押入を開けると、下唇を咬んで蒲団の載つてゐるまま長持の蓋を上げた。
「行くの?」と子は又聞いた。
母は黒く光つた丸帯を出して、
「お父さんつて雨が降つてるのに、」と呟くと、子の顔を一目も見ずに下へ降りて行つて、階段の中程の所から
「用意お仕や。」と強く云つた。
子は腹を立てた。「行くものか。」と思つた。
暫くしてから、母は帯をしめて又二階へ来た。
「まだ用意おしやないの。」
「行きたかないよ。」
母は黙つて子の顔を眺めてゐた。
「お母さんとお父さんと行くといい、俺は留守をしてゐるよ。」
「今頃そんなことを言うて……」
「やめだつてば。」
「可笑し
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