うか。去年初めて関西へ連れて来た私の家内は、京都大阪奈良と諸所を歩いてから大津へ来ると、一番関西で好きな所は大津だと私に洩した。家内と大津へ行つたときには早春であつたが、夏の大津の美しさは、またはるかに早春とは違つてゐる。「唐崎の松は花より朧《おぼろ》にて」といふ芭蕉の句は、非常な駄作だといふ俳人達の意見が多いが、膳所《ぜぜ》や石場あたりから、始終対岸の唐崎の松を見つけてゐる者でなければ、この句の美しさは分り難いと思ふ。
 夏前になると今年はどこへ行くかといふ質問を毎年受ける。しかし、私は田舎の夏よりも都会の夏の方が好きである。一夏を都会で過ごすと、その一年を物足らなく誰も思ふらしいが、私はさうではない。夏の美しさや楽しさは、昼よりも夜であるから、田舎にゐては、夜が来ると早くから寝なければならぬので、夏の過ぎることばかりが待ち遠しい。しかし、都会にゐると、もう、秋が来るのかと、過ぎ行く夏が惜しまれる。殊に私は夏が一番仕事が出来るので、旅をしては一年の働く時機を見失ふ。人は一年の終りになると、それぞれ自分の好きな来年の季節を待つものだが、私は何となく夏を待つ。夏は過ぎ去つた楽しい過去に火
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