琵琶湖
横光利一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)這入《はい》り、

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)勿論|滑稽《こつけい》な
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 思ひ出といふものは、誰しも一番夏の思ひ出が多いであらうと思ふ。私は二十歳前後には、夏になると、近江の大津に帰つた。殊に小学校時代には我が家が大津の湖の岸辺にあつたので、琵琶湖の夏の景色は脳中から去り難い。今も東海道を汽車で通る度に、大津の街へさしかかると、ひとりでゐても胸がわくわくとして、窓からのぞく顔に微笑が自然と浮かんで来る。こんなひそかな喜びといふものは、誰にもあると見えて、ある夏のこと、私の二十一二のころ大津から東京へ行くときに、二十二三の美しい婦人が私の前の席に乗つたことがあつた。私は東京近く来るまで、その婦人と一言も言葉も交へなければ、顔も見合したこともなく坐つて一夜を明したが、大森まで汽車が来かかつたとき、突然その婦人は私に、「あそこに見える家に、あたしをりますの。」と一言いつて笑つた。私は返事も出来ずに窓から指差された家を見たきりで、黙つてそのまま別れてしまつたが、それとは違つてまたも
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