う一度、それに以寄つた目にあつた。これも私の二十二三のときの夏のことで、九州へ行つたときであるが、汽車が熊本へ這入《はい》り、球磨《くま》川の急流に沿つて沢山のトンネルを抜けては出、抜けては出てゐる最中である。私の前に老人の男が一人高い鼾《いびき》をかいて横になつてゐた。そのときには、私たちの車内に私と老人とただ二人きりで、他にも誰もゐなかつたが、汽車が断崖にさしかかつてしばらくたつてから、河をへだてた対岸の絶壁の中腹に、一軒ぽつりと家が見えた。すると、その老人は急にむくりと起き上ると、「あれはわしの女房の里や。」と一言いつて、またころりと寝てしまつた。
 これらの話はささいなことながら、いつまでも忘れずに、生涯微笑ましい記憶となつて、何か書かうとするときや、世間話をするときなどに、第一番に浮き上つて来るものであるが、この老人の心理や前の婦人の気持ちに似た喜ばしさは、東海道では大津より以外は私には起らない。大津へ来かかると、私も傍にゐる見知らぬ人にでも、ここは私の小さいときにゐたところでと、思はずいひたくて堪らぬ気持に誘惑される。大津の美しさは、たまに大津へ行つたものでも感じるのであら
前へ 次へ
全9ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング