もしなかった。
「王は爾を待っている。」と、再び使部は彼女にいった。
 卑弥呼は訶和郎の胸から顔を上げて使部を見た。
「爾は王の前へ彼を伴なえ。」
「王は爾を伴えと我にいった。」
「王は彼を伴うを我に赦《ゆる》した。連れよ。」
 使部は訶和郎の死体を背に負って引き返した。卑弥呼は乱れた髪と衣に、乾草の屑《くず》をたからせて使部の後から石の坂道を登っていった。若者たちは左右に路を開いて彼女の顔を覗《のぞ》いていた。そうして、彼女の姿が彼らの前を通り抜けて、高い麻の葉波の中に消えようとしたとき、初めて彼らの曲った腰は静《しずか》に彼女の方へ動き出した。彼らの肩は狭い路の上で突《つ》き衝《あた》った。が、百合根を持った一人の若者は後の方で口を開いた。
「鹿の美女は森にいる。森へ行け。」
 若者たちは再び彼の方を振り向くと、石窖の前から彼に従って森の中へ馳け込んだ。

       十九

 卑弥呼《ひみこ》の足音が高縁《たかえん》の板をきしめて響いて来た。君長《ひとこのかみ》の反耶《はんや》は、竹の遣戸《やりど》を童男に開かせた。薄紅《うすくれない》に染った萩《はぎ》の花壇の上には、霧の中で
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