。彼女は格子の傍へ近か寄った。そして、奴隷の臆病な犬のような二つの細い眼に嫣然《えんぜん》と微笑を投げて、彼にいった。
「来《きた》れ。」
 奴隷は眼脂《めやに》に塊《かたま》った逆睫《さかまつげ》をしばたたくと、大きく口を開いて背を延ばした。弓は彼の肩から辷《すべ》り落《お》ちた。
「爾は鹿狩りの夜を見たか。」
「見た。」
「爾は我の横に立てる男を見たか。」
「見た。」
 卑弥呼は首から勾玉《まがたま》を脱《はず》すと、彼の膝《ひざ》の上へ投げていった。
「爾は彼を見た山へ行け。爾は彼を伴なえ。爾は玉をかけて山へ行け。我は爾にその玉を与えよう。」
 奴隷は彼女の勾玉を拾って首へかけた。勾玉は彼の胸の上で、青い蜥蜴《とかげ》の刺青《ほりもの》を叩《たた》いて音を立てた。彼は加わった胸の重みを愛玩するかのように、ひとり微笑を洩《もら》しながら玉を撫《な》でた。
「夜は間もなく明けるであろう、行け。」と卑弥呼はいった。
 奴隷は立ち上った。そうして、胸を圧《おさ》えると彼の姿は夜霧の中に消えていった。しかし、間もなく、彼の足音に代って石を打つ木靴《きぐつ》の音が聞えて来た。卑弥呼は再び格子
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