もの》した一人の奴隷がつけられていた。彼の頭は嫁菜《よめな》の汁で染められた藍色《あいいろ》の苧《からむし》の布《きれ》を巻きつけ、腰には継ぎ合した鼬《いたち》の皮が纏《まと》われていた。
 卑弥呼は兵士たちに押し込められたまま乾草の上へ顔を伏せて倒れていた。夜は更《ふ》けた。兵士たちのさざめく声は、彼らの疲労と睡《ねむ》けのために耶馬台の宮から鎮《しず》まった。そうして、森からは霧を透《とお》して梟《ふくろう》と狐の声が石窖の中へ聞えて来た。かつて、卑弥呼が森の中で卑狗《ひこ》の大兄《おおえ》の腕に抱かれて梟の声を真似《まね》たのは、過ぎた平和な日の一夜であった。かつて、彼女が訶和郎《かわろ》の腕の中で狐の声を聞いたのは、過ぎた数日前の夜であった。
「ああ、訶和郎よ、もし我が爾《なんじ》に従って不弥《うみ》へ廻れば、我は今爾とともにいるのであろう。ああ、訶和郎よ、我を赦《ゆる》せ。我は卑狗を愛している。爾は我のために傷ついた。」
 卑弥呼は頭を上げて格子の外を見た。外では、弓を首によせかけた奴隷が、消えかかった篝火《かがりび》の傍で乾草の上に両手をついて、石窖の中を覗《のぞ》いていた
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