ていた。彼《かれ》は自身《じしん》より弱者《じゃくしゃ》に対《たい》してはいくらでも自身《じしん》を犠牲《ぎせい》にすることの出来《でき》る善徳《ぜんとく》を持《も》つ代《かわ》りに、自身《じしん》よりも強者《きょうしゃ》に対《たい》しては死《し》ぬまで身《み》を引《ひ》くことの出来《でき》ない男《おとこ》である。しかもAとQとは、この二人《ふたり》の闘《たたか》いならどこまでいってもAが勝《か》ち続《つづ》けるに定《きま》っているのだ。その度《たび》にリカ子《こ》がQを軽蔑《けいべつ》するなら、――私《わたし》はリカ子《こ》をQに返《かえ》したことは彼《かれ》と彼女《かのじょ》とのためには最大《さいだい》の悪徳《あくとく》でさえあったことに気《き》がついた。私《わたし》は私《わたし》の善行《ぜんこう》だと思《おも》ってしたことが悪行《あくぎょう》に変《かわ》ったとて恐縮《きょうしゅく》する要《よう》のないこと位《くらい》は分《わか》っていても、それにしてもリカ子《こ》が急《きゅう》にこの時《とき》から嫌《きら》いになったと同時《どうじ》に、私《わたし》にはますますQが親《した》わしくなって来《き》たことも事実《じじつ》である。或《あ》る日《ひ》私《わたし》はリカ子《こ》にそれとなく地質学界《ちしつがっかい》の過去《かこ》の大天才《だいてんさい》が次《つ》ぎ次《つ》ぎに現《あら》われる新《あたら》しい天才《てんさい》に負《ま》かされていった歴史《れきし》を話《はな》してやった。まことに過去《かこ》一|世紀《せいき》の間《あいだ》に現《あら》われた新学説《しんがくせつ》の興亡《こうぼう》を私《わたし》が思《おも》い出《だ》しても、個人《こじん》の力《ちから》の限界《げんかい》の小《ちい》ささを感《かん》ぜざるを得《え》ないのだ。一|世《せい》を風靡《ふうび》した凡水論《ネプチュニズム》の主唱者《しゅしょうしゃ》エルナーを顛覆《てんぷく》させた凡火論《ボルカニズム》、その凡火論《ボルカニズム》の主唱者《しゅしょうしゃ》ハットンを顛覆《てんぷく》させた災異説《カタストロフィズム》、その災異説《カタストロフィズム》の主唱者《しゅしょうしゃ》セヂウィックを破《やぶ》った斉一説《ユニフォルミタラニズム》のライエルと、そうしてそれらの総《すべ》てを綜合《そうごう》した進化説《ダーウィニズム》のダーウィンを思《おも》えば、私《わたし》は一|個人《こじん》が他個《たこ》に敗北《はいぼく》することはそれは敗北《はいぼく》することではなくして神《かみ》への奉仕《ほうし》に思《おも》えてならないのだ。もしそれが敗北《はいぼく》なら、勝《か》ったものは必《かなら》ず誰《たれ》かに負《ま》けねばならぬ。AとQとの闘《たたか》いもそれは闘《たたか》いではなくして次《つぎ》に現《あら》われる天才《てんさい》への贈物《おくりもの》を製造《せいぞう》しているにすぎないと私《わたし》がいえば、今《いま》まで黙《だま》って私《わたし》の饒舌《しゃべ》っているのを聞《き》いていたリカ子《こ》は急《きゅう》に私《わたし》の胸《むね》の上《うえ》へ倒《たお》れて来《き》た。彼女《かのじょ》のこの感情《かんじょう》の転向《てんこう》がもしQと彼女《かのじょ》の上《うえ》に、再《ふたた》び幸福《こうふく》をもたらすなら――と私《わたし》が思《おも》っていると、それは意外《いがい》にもリカ子《こ》が私《わたし》へ転向《てんこう》して来《き》たことを示《しめ》していたのだ。なるほど個人《こじん》の負《ま》けることが負《ま》けることでないなら、QがAに負《ま》けたのではないごとく私《わたし》もまたQに負《ま》けたことにはならぬのだ。私《わたし》の今《いま》まで饒舌《しゃべ》っていたことは誰《たれ》のためでもない私《わたし》のためだったのだ。リカ子《こ》が私《わたし》の胸《むね》の上《うえ》へ倒《たお》れたのも多分《たぶん》私《わたし》が私《わたし》のためにいったのだと思《おも》ったからでもあったろうが、それにしても彼女《かのじょ》のその行為《こうい》は、私《わたし》が饒舌《しゃべ》っている間《あいだ》、彼女《かのじょ》がQのことを考《かんが》えずに私《わたし》のことを考《かんが》えていてくれた証拠《しょうこ》にだけは十|分《ぶん》になっているのだ。復活《ふっかつ》した愛《あい》――しかし、それは所詮《しょせん》私《わたし》が捻向《ねじむ》けたものではないか。私《わたし》は私《わたし》としてもう一|度《ど》彼女《かのじょ》をQへ捻戻《ねじもど》さねばならぬ。そうおもった私《わたし》は早速《さっそく》リカ子《こ》にお前《まえ》はわれわれ二人《ふたり》で製作《せいさく》したQの美徳《びとく》の使用法《しようほう》を間違《まちが》っているのだから、今日《きょう》から心《こころ》を入《い》れ変《か》えてQに慰安《いあん》を与《あた》えるよう、それでない限《かぎ》りお前《まえ》には永久《えいきゅう》に幸福《こうふく》はもうないのだ、幸福《こうふく》というものは知識《ちしき》の上《うえ》には絶対《ぜったい》にあったためしがなく、ただ自身《じしん》の頭《あたま》を下《さ》げて同化《どうか》することにあるばかりだというと、いった瞬間《しゅんかん》また私《わたし》はこれもますます私自身《わたしじしん》のためのみにいっているにすぎないことだと気《き》がついた。それで私《わたし》は結局《けっきょく》私《わたし》の注告《ちゅうこく》する言葉《ことば》は私《わたし》の心《こころ》の中《なか》から出《で》ていくにちがいないのだから、私《わたし》が私《わたし》のためにいっていると思《おも》わないで聞《き》いてくれ、私《わたし》のいうのは皆《みな》お前《まえ》のためにいっているので、私《わたし》のためだと思《おも》えば私《わたし》は死《し》んでもいわぬであろう位《くらい》のことは長《なが》い二人《ふたり》の生活《せいかつ》に対《たい》して敬意《けいい》を表《ひょう》する意味《いみ》でも思《おも》ってくれ、そうでない限《かぎ》り何《なん》のための二人《ふたり》の生活《せいかつ》だったのか分《わか》らぬではないかというと、リカ子《こ》は、それはあなたが近頃《ちかごろ》の私《わたし》について考《かんが》え違《ちが》いばかりをしているからだという。どういう考《かんが》え違《ちが》いかと聞《き》くと、あなたは私《わたし》の行《おこな》いを私《わたし》の醜《みにく》い部分《ぶぶん》からばかりで見《み》たがり、そのため折角《せっかく》の良《よ》い部分《ぶぶん》もあなたの私《わたし》を愛《あい》して下《くだ》さる心《こころ》のために払《はら》い落《おと》してしまっている。だからもっと私《わたし》から前《まえ》のように良《よ》い所《ところ》を探《さが》してくれ、そうでない限《かぎ》り自分《じぶん》にはもう幸福《こうふく》がないとまでいう。私《わたし》は急《きゅう》にリカ子《こ》にそんなことをいわしたのはQのどこがいわしめたのかともう一|度《ど》考《かんが》えたが、私《わたし》の考《かんが》えた以上《いじょう》にはもう考《かんが》えることが出来《でき》なかった。それで私《わたし》はお前《まえ》はそれでQを愛《あい》しているのかと訊《き》くと、愛《あい》してはいるが前《まえ》のようではない、私《わたし》はやはりあなたの方《ほう》を愛《あい》しているのだという、嘘《うそ》にしてもそれは私《わたし》には喜《よろこ》ばしいのだが、どうしてこういうことが喜《よろこ》ばしいのかもう私《わたし》は自分《じぶん》が分《わか》らなくなって来《き》た。いやそれよりあれほどもQを慕《した》いながら出《で》ていったリカ子《こ》が、まだ一|年《ねん》ともたたない今頃《いまごろ》どうしてこれほども変《かわ》って来《き》たのであろう。それは丁度《ちょうど》私《わたし》の家《うち》にいたときの彼女《かのじょ》がデアテルミイの醒《さ》めるに従《したが》って逃《に》げ出《で》たように、Qから逃《に》げ出《だ》して来始《きはじ》めたのも、Qの中《なか》に潜《ひそ》んでいた新《あたら》しいデアテルミイの私《わたし》が効力《こうりょく》を失《うしな》い出《だ》して来《き》たからではなかろうか。私《わたし》がリカ子《こ》と最初《さいしょ》に結婚《けっこん》する破目《はめ》になったのも、彼女《かのじょ》の身体《からだ》にデアテルミイが火《ひ》を点《つ》けたからにちがいないのだ。彼女《かのじょ》がQと結婚《けっこん》したのも、私《わたし》がデアテルミイのように彼女《かのじょ》に火《ひ》を点《つ》けていたからにちがいないのだ。そうしていままた彼女《かのじょ》が私《わたし》へ舞《ま》い戻《もど》って来始《きはじ》めたのは、Qのデアテルミイが彼女《かのじょ》に火《ひ》を点《つ》け返《かえ》して来《き》たのであろう。私《わたし》はこの女《おんな》がもう嫌《きら》いだ。出《で》ていけ、畜生《ちくしょう》、そう私《わたし》が黙《だま》って腹《はら》の中《なか》で叫《さけ》んでいると、リカ子《こ》は私《わたし》に考《かんが》えを与《あた》えないかのように、急《きゅう》に今迄《いままで》慎《つつし》んで来《き》たQの悪口《あっこう》を切《き》って落《おと》したようにいい始《はじ》めた。彼女《かのじょ》のいうにはあなたの悪口《あっこう》をいう、あなたがあれほどもQをひそかに賞《ほ》めているにも拘《かかわ》らずQはそれが反対《はんたい》だ。私《わたし》はQのどこが豪《えら》いのかこの頃《ごろ》どこからも感《かん》じることが出来《でき》ない。あれは贋物《にせもの》で嘘《うそ》つきで負《ま》けず嫌《ぎら》いでその癖《くせ》威張《いば》ることだけが何《なに》より好《す》きで、知《し》っているのは女《おんな》のことと人《ひと》を軽蔑《けいべつ》することだけだという。私《わたし》は唖然《あぜん》として彼女《かのじょ》の顔《かお》を見《み》ているとリカ子《こ》は笑《わら》いながらもその笑《わら》う度《たび》にだんだん蒼《あお》ざめていきつつ涙《なみだ》を流《なが》していい出《だ》すのだ。私《わたし》は擦《す》りあったガラスの奥《おく》でまた別《べつ》のガラスが擦《す》り合《あ》っているのを見《み》ているようで、どこからどこまでが私《わたし》の喜《よろこ》ぶべき領分《りょうぶん》かどこでQが蹴《け》りつけられているのか朦朧《もうろう》とし始《はじ》めた。するとリカ子《こ》は私《わたし》の咽喉笛《のどぶえ》に食《く》いつくように、あなたは馬鹿《ばか》でお人好《ひとよ》しのように見《み》える癖《くせ》に猾《ずる》くて隅《すみ》に置《お》けなくて、くよくよしている坊主《ぼうず》みたいにめそめそしていてそれに説教《せっきょう》ばかりしたがってとやっつけ出《だ》した。このリカ子《こ》の暴風《ぼうふう》のような暴《あば》れ出《だ》し方《かた》が今迄《いままで》Qの悪口《あっこう》を聞《き》いて不快《ふかい》になっていた私《わたし》の心《こころ》を吹《ふ》き払《はら》った。そればかりではない、私《わたし》にはリカ子《こ》のいっていることがいちいち胸《むね》に応《こた》えて来《き》て、そうだ、そうだと首《くび》まで調子《ちょうし》を合《あわ》せて頷《うなず》くのだ。全《まった》く私《わたし》は今《いま》までQとリカ子《こ》とから賞《ほ》められすぎて来《き》たのである。私《わたし》は賞《ほ》められれば賞《ほ》められるままの姿《すがた》に堅《かた》められ、ますます不幸《ふこう》な方向《ほうこう》へばかり辷《すべ》り込《こ》んで来《き》ていたのだ。その癖《くせ》心《こころ》は絶《た》えず反対《はんたい》の幸福《こうふく》を望《のぞ》み、人《ひと》に勝《か》つことを心《こころ》がけ、負《ま》けると人《ひと》の急所《きゅう
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