横光利一

 リカ子《こ》はときどき私《わたし》の顔《かお》を盗見《ぬすみみ》するように艶《つや》のある眼《め》を上《あ》げた。私《わたし》は彼女《かのじょ》が何《な》ぜそんな顔《かお》を今日《きょう》に限《かぎ》ってするのか初《はじ》めの間《あいだ》は見当《けんとう》がつかなかったのだが、それが分《わか》った頃《ころ》にはもう私《わたし》は彼女《かのじょ》が私《わたし》を愛《あい》していることを感《かん》じていた。便利《べんり》なことには私《わたし》はリカ子《こ》を彼女《かのじょ》の良人《おっと》から奪《うば》おうという気《き》もなければ彼女《かのじょ》を奪《うば》う必要《ひつよう》もないことだ。何《な》ぜなら私《わたし》はリカ子《こ》を彼女《かのじょ》の良人《おっと》に奪《うば》われたのだからである。この不幸《ふこう》なことが幸《さいわ》いにも今頃《いまごろ》幸福《こうふく》な結果《けっか》になって来《き》たということは、私《わたし》にとっては依然《いぜん》として不幸《ふこう》なことになるのであろうかどうか、それは私《わたし》には分《わか》らない。私《わたし》はリカ子《こ》――私《わたし》の妻《つま》だったリカ子《こ》をQから奪《と》られたのはそれは事実《じじつ》だ。しかし、それは私《わたし》が彼《かれ》にリカ子《こ》を与《あた》えたのだといえばいえる。それほども私《わたし》とリカ子《こ》とQとの間《あいだ》には単純《たんじゅん》な迷《まよ》いを起《おこ》させる條《すじ》がある。それは世間《せけん》にありふれたことだと思《おも》われるとおりの平凡《へいぼん》な行状《ぎょうじょう》だが、ここに私《わたし》にとっては平凡《へいぼん》だと思《おも》えない一|点《てん》がひそんでいるのだ。人《ひと》は二人《ふたり》おればまア無事《ぶじ》だが三|人《にん》おれば無事《ぶじ》ではなくなる心理《しんり》の流《なが》れがそれが無事《ぶじ》にいっているというのは、どこか三|人《にん》の中《なか》で一人《ひとり》が素晴《すば》らしく賢《かしこ》いか誰《たれ》かが馬鹿《ばか》かのどちらかであろうように、三|人《にん》の中《なか》でこの場合《ばあい》私《わたし》が一|番《ばん》図抜《ずぬ》けて馬鹿《ばか》なことは確《たし》かなことだ。Qと私《わたし》とにいたってはことごとに私《わたし》の方《ほう》が馬鹿《ばか》な成績《せいせき》を上《あ》げているのだ。もとを洗《あら》えば私達《わたしたち》二人《ふたり》、Qと私《わたし》とは同年《どうねん》で同級《どうきゅう》で専攻科目《せんこうかもく》さえ同《おな》じだった所《ところ》へ、同《おな》じ食客《しょっかく》としてリカ子《こ》の家《いえ》の上《うえ》と下《した》とで彼女《かのじょ》を迷《まよ》わせることにかけても同様《どうよう》な注意《ちゅうい》を払《はら》っていたのだ。結晶学《けっしょうがく》の実習《じっしゅう》でダイヤモンドの標本《ひょうほん》を学校《がっこう》から持《も》って帰《かえ》り、初《はじ》めてリカ子《こ》に見《み》せたのが思《おも》えばこのリカ子《こ》のわれわれ二人《ふたり》に迷《まよ》い出《だ》した初《はじ》めであった。つまり、リカ子《こ》の人生《じんせい》はダイヤモンドから始《はじ》まったのだ。そのとき私達《わたしたち》はQの部屋《へや》で今《いま》私《わたし》が下《した》でして来《き》たダイヤモンドの結晶面《けっしょうめん》の測定《そくてい》について話《はな》していた。すると、リカ子《こ》は丁度《ちょうど》お茶《ちゃ》を持《も》って這入《はい》って来《き》ていつものように話《はな》し出《だ》し、そのダイヤモンドはどこの産《さん》かと質問《しつもん》した。所《ところ》が、私《わたし》にはそのダイヤモンドの母岩《ぼがん》との関係《かんけい》とか産出状態《さんしゅつじょうたい》とか自然性《しぜんせい》の結晶面《けっしょうめん》とかは分《わか》っていても、その少女《しょうじょ》の最《もっと》も知《し》りたい平凡《へいぼん》なことだけは分《わか》らなかった。すると、Qは実《じつ》に私《わたし》も驚歎《きょうたん》したのであるが、直《ただ》ちにそれはミナスゲラスだといい切《き》った。私《わたし》にはミナスゲラスはどこの国《くに》にあるのかさえも分《わか》らないのに、リカ子《こ》――漸《ようや》く女学校《じょがっこう》を出《で》かかった彼女《かのじょ》に、分《わか》ろう筈《はず》もないことをいうQの心理《しんり》に、初《はじ》めは私《わたし》とて驚《おどろ》かざるを得《え》ないのだが、しかし、私《わたし》の驚《おどろ》きは忽《たちま》ち彼《かれ》への尊敬《そんけい》の念《ねん》へ変《かわ》り出《だ》して再《ふたた》び全《まった》く別《べつ》の驚《おどろ》きに変《かわ》り出《だ》したというのは、他《ほか》でもない。Qは怪《あや》しい顔《かお》をしている私《わたし》の表情《ひょうじょう》に向《むか》って投《な》げつけるように、そのダイヤモンドの母岩《ぼがん》が礫岩《れきがん》であり削剥堆積《さくはくたいせき》の噴出状態《ふんしゅつじょうたい》の痕跡《こんせき》を表《あらわ》している所《ところ》を見《み》ると、オルドウィス紀《き》の噴出《ふんしゅつ》にちがいなく、母岩《ぼがん》が礫岩《れきがん》でオルドウィス紀《き》の噴出《ふんしゅつ》なら、ミナスゲラス以外《いがい》にはないではないかといい出《だ》した。私《わたし》にはミナスゲラスさえ知《し》らないのにどうしてQがそのミナスゲラスとダイヤモンドとの関係《かんけい》を知《し》っているのだろうか、これは全《まった》く驚《おどろ》く以外《いがい》にはなくなって、ふと私《わたし》はリカ子《こ》が傍《そば》にいることさえ忘《わす》れてしまい、君《きみ》のいうミナスゲラスとはいったいどこだいと訊《き》いてみた。すると、Qはこれ以上《いじょう》リカ子《こ》のいる前《まえ》で私《わたし》に辱《はずかし》い思《おも》いをさせるのを慎《つつし》むかのように黙《だま》りながら、Minas Geraesと鉛筆《えんぴつ》で書《か》いてコーヒーだといった。ははあブラジルかと私《わたし》はいったがもうそのときは遅《おそ》かった。いつも二人《ふたり》の知識《ちしき》を比《くら》べたがる年齢《ねんれい》のリカ子《こ》の前《まえ》でのこの最初《さいしょ》の敗北《はいぼく》は、人生《じんせい》の半《なか》ばを敗北《はいぼく》し続《つづ》けたのと同《おな》じことだ。私《わたし》はそれからはこの最初《さいしょ》の敗北《はいぼく》を取《と》り返《かえ》そうとして彼《かれ》の下《した》で一|層《そう》激《はげ》しく勉強《べんきょう》をし始《はじ》めたのだが、私《わたし》がすればするほどQも二|階《かい》でそれだけ勉強《べんきょう》をしているのだ。同《おな》じ量《りょう》の勉強《べんきょう》を二人《ふたり》がしているとするといつも私《わたし》の方《ほう》がはるかに彼《かれ》より勉強《べんきょう》しないことになっていく。私《わたし》がランゲを読《よ》めばQはバウエルを読《よ》んでいる。私《わたし》がフムボルトを読《よ》めば彼《かれ》はローレンツとモアッサンを読《よ》んでいる。私《わたし》が漸《ようや》くモアッサンにかかるともう彼《かれ》はウォルフとハッスリンガーにかかっているという状態《じょうたい》で、夜《よ》の目《め》も寝《ね》ずに私《わたし》が勉強《べんきょう》したとてとても彼《かれ》には及《およ》ぶことが出来《でき》ないのだ。何《なに》が悲《かな》しいといったとて自分《じぶん》の敵《てき》が頭《あたま》の上《うえ》で自分《じぶん》との距離《きょり》をますます延《の》ばしていくことほど口惜《くや》しいことはないであろう。しかし、それがあまりにかけ離《はな》れるともう私《わたし》はただ彼《かれ》を尊敬《そんけい》することだけが専門《せんもん》になり始《はじ》めた。彼《かれ》にとっては初《はじ》めから私《わたし》などは敵《てき》ではないのだ。それを愚《おろ》かしくもこちらが敵《てき》だと思《おも》ってひとりくよくよしていた自分《じぶん》の格好《かっこう》を考《かんが》えると、私《わたし》は私自身《わたしじしん》が気《き》の毒《どく》でならなくなった。殊《こと》にQには彼《かれ》を絶《た》えず凌駕《りょうが》していた敵手《てきしゅ》のAがあったのだ。AとQとはQと私《わたし》との場合《ばあい》におけるがように何《なに》かにつけてAの方《ほう》が上《うえ》になった。Qが凡水論《ネプチュニズム》にかかっているとAは凡火論《ボルカニズム》にかかっている。Qが災異論《カタストロフィズム》にかかっているとAはもうパイエルの進化論《しんかろん》にかかっているという調子《ちょうし》がQをますます勉強《べんきょう》させていたのである。しかし私《わたし》はQがAに圧迫《あっぱく》されているこの状態《じょうたい》に対《たい》して復讐《ふくしゅう》の快感《かいかん》よりも応援《おうえん》の快感《かいかん》を感《かん》じて鞭《むち》を打《う》った。ある日《ひ》の研究報告会《けんきゅうほうこくかい》でQがAに打《う》ち負《ま》かされたときなどには私《わたし》は私《わたし》がQであるかのように萎《しお》れてしまった。それは丁度《ちょうど》私《わたし》がQからミナスゲラスで刺《さ》されたときのように。QはAから岩石学《がんせきがく》の最大問題《さいだいもんだい》である岩漿分化《がんしょうぶんか》と母液《ぼえき》との関係《かんけい》の説明《せつめい》に這入《はい》って刺《さ》され出《だ》したのだが、Aは突然《とつぜん》、黒曜石《こくようせき》の結晶母液《けっしょうぼえき》となるべき硅酸《けいさん》の比重測定《ひじゅうそくてい》の方式《ほうしき》はダーウィンによって始《はじ》められたといい出《だ》したのだ。私《わたし》は無論《むろん》のことそこに並《なら》んでいた者達《ものたち》と同様《どうよう》に今《いま》までダーウィンを生物学者《せいぶつがくしゃ》だとばかり思《おも》っていたQにとって、これはあまりに意外《いがい》であった。もうそうなれば今《いま》までの問題《もんだい》であった熔岩中《ようがんちゅう》の各鉱物《かくこうぶつ》の比重差《ひじゅうさ》と沈澱位置《ちんでんいち》などということにかけてはAが最《もっと》もよく知《し》っているに定《きま》っているのだ。座《ざ》はそれから次第《しだい》に結晶学《けっしょうがく》の法則《ほうそく》そのままの形《かたち》をとり始《はじ》め、その各人《かくじん》の比重《ひじゅう》に従《したが》って沈《しず》み出《だ》した。私《わたし》はQよりはるかに劣《おと》っている自分《じぶん》を考《かんが》え、そのQよりもはるかに優《すぐ》れたAを考《かんが》え、そのAと自分《じぶん》との比較《ひかく》すべくもなき素質《そしつ》の距離《きょり》を考《かんが》えると、もう自分《じぶん》の運命《うんめい》さえ判然《はんぜん》となって眼《め》の前《まえ》に現《あらわ》れ出《だ》したのだ。私《わたし》の頭《あたま》はそれからいよいよ謙遜《けんそん》になる一|方《ぽう》であった。Qに対《たい》しては勿論《もちろん》のこと、他《た》の友人《ゆうじん》や隣人《りんじん》、長上《ちょうじょう》や年少《ねんしょう》の者《もの》に対《たい》してさえも私《わたし》は頭《あたま》を上《あ》げることが出来《でき》なくなった。私《わたし》が神《かみ》のことを考《かんが》え出《だ》したのもつまりはそのときからである。人《ひと》の肉体《にくたい》が皆《みな》それぞれ尽《ことごと》く同数《どうすう》の筋肉《きんにく》と骨格《こっかく》とを持《も》っているにも拘《かかわ》らず、この素質《そしつ》の不均衡《ふきんこう》は
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