何事《なにごと》であろうか、と考《かんが》えたのが神《かみ》への一|歩《ぽ》の私《わたし》の近《ちか》づきであった。今《いま》思《おも》えば私《わたし》がこの探索《たんさく》の方向《ほうこう》をもったということが、私達《わたしたち》友人《ゆうじん》の中《なか》での特長《とくちょう》ある素質《そしつ》であったことに気《き》がつくのだが、そのときはそれが私《わたし》の友人達《ゆうじんたち》からの敗北《はいぼく》の結果《けっか》だとばかりより思《おも》えなかった。それ以後《いご》の私《わたし》の謙譲《けんじょう》さは私《わたし》とQとの間《あいだ》を一|層《そう》親《した》しく接近《せっきん》せしめるばかりであった。Qは私《わたし》にはことごとに助力《じょりょく》を与《あた》え、私《わたし》の性格《せいかく》を友人中《ゆうじんちゅう》並《なら》ぶものもなく高《たか》いといい、私《わたし》の頭脳《ずのう》の速度《そくど》の遅《おそ》い原因《げんいん》を過度《かど》の頭《あたま》の良《よ》さが常《つね》に逆《ぎゃく》に働《はたら》くがためだと賞《ほ》め、発見力《はっけんりょく》や発明力《はつめいりょく》はQやAの頭《あたま》の働《はたら》きにはなく常《つね》に私《わたし》の頭《あたま》の逆廻転力《ぎゃくかいてんりょく》にあるという。それのみならず彼《かれ》は私《わたし》とリカ子《こ》を近《ちか》づけることに喜《よろこ》びを感《かん》じるかのように彼女《かのじょ》と私《わたし》とを労《いた》わるのだ。私《わたし》はQがそのようにも変《かわ》り始《はじ》めたことについては、それが彼《かれ》の美徳《びとく》の当然《とうぜん》の現《あらわ》れだと思《おも》う以外《いがい》には感《かん》じることが出来《でき》なかった。そうして、私《わたし》とリカ子《こ》とはいつの間《ま》にかQの寛大《かんだい》さに甘《あま》えて結婚《けっこん》する破目《はめ》になった。それは私《わたし》が彼女《かのじょ》を最初《さいしょ》に誘惑《ゆうわく》したのか彼女《かのじょ》に私《わたし》が誘惑《ゆうわく》されたのか分《わか》らぬのだが、その時《とき》家中《うちじゅう》に誰《たれ》も人《ひと》がいなかったということが二人《ふたり》の不幸《ふこう》の原因《げんいん》を造《つく》ったのだ。ただ私《わたし》はそのときいつものように噴火口《ふんかこう》から拾《ひろ》って来《き》た粗面岩《そめんがん》の吹管分析《すいかんぶんせき》にかかっていると、突然《とつぜん》リカ子《こ》が私《わたし》の部屋《へや》に這入《はい》って来《き》てデアテルミイが壊《こわ》れたようだから見《み》て貰《もら》いたいという。私《わたし》は彼女《かのじょ》に何事《なにごと》かいわれると不思議《ふしぎ》に自分《じぶん》の勉強《べんきょう》を投《な》げ出《だ》す習慣《しゅうかん》がついていて、投《な》げ出《だ》した瞬間《しゅんかん》これは失敗《しま》ったといつも思《おも》うのだ。そこへいくとQは勉強《べんきょう》の時《とき》となると誰《たれ》が何《なに》をいっても横《よこ》を向《む》くことさえ稀《まれ》である。私《わたし》は私《わたし》の勉強《べんきょう》を投《な》げ出《だ》してリカ子《こ》の後《うしろ》から従《つ》いていきながらもQの豪《えら》さを考《かんが》えさせられてひとり腹立《はらだ》たしささえ感《かん》じていた。それで私《わたし》は他人《たにん》の勉強《べんきょう》をしているとき教養《きょうよう》ある女性《じょせい》ともあろうものが何《な》ぜ邪魔《じゃま》をするのだと怒《おこ》りながらリカ子《こ》の部屋《へや》へ這入《はい》っていくと、あなただからこそいつでも何《な》んでも頼《たの》めるのだ、デアテルミイのように直接《ちょくせつ》自分《じぶん》の皮膚《ひふ》へあてがう機械《きかい》の狂《くる》ったのを直《なお》して貰《もら》うのもあなただからこそではないかという。しかし、私《わたし》は私《わたし》で自分《じぶん》の頭《あたま》がだんだん悪《わる》くなるのも君《きみ》が私《わたし》の頭《あたま》を使《つか》うからだ。同《おな》じ使《つか》うなら私《わたし》の頭《あたま》を引《ひ》き摺《ず》り上《あ》げるように使《つか》ってくれ、そうでなくとも私《わたし》の頭《あたま》は君《きみ》の方《ほう》へ向《む》き過《す》ぎて困《こま》るのだというと、リカ子《こ》は急《きゅう》に黙《だま》ってしまって私《わたし》の膝《ひざ》へ頭《あたま》をつけたまま動《うご》かない。私《わたし》は動《うご》かないリカ子《こ》を上《うえ》から見《み》ていると、私《わたし》がリカ子《こ》にそういうことをいう資格《しかく》もないにも拘《かかわ》らずいい出《だ》したのでリカ子《こ》は困《こま》って泣《な》いているのだと思《おも》い込《こ》んだ。それで私《わたし》は直《す》ぐ何《なに》かいい訳《わけ》をしようと思《おも》い、周章《あわ》てて彼女《かのじょ》を起《おこ》そうとすると、リカ子《こ》はリカ子《こ》で私《わたし》が彼女《かのじょ》をいよいよ事実的《じじつてき》に愛《あい》し出《だ》したのだと思《おも》い込《こ》んだと見《み》えて、ますますぴったり身体《からだ》をひっつけて来《き》て放《はな》れない。すると、私《わたし》の頭《あたま》は一|層《そう》混乱《こんらん》を始《はじ》めるばかりで何《なに》が何《な》んだか分《わか》らなくなり、時間《じかん》も場所《ばしょ》も私達《わたしたち》二人《ふたり》からだんだんと退《しりぞ》いてしまったのだ。この過失《かしつ》をこれだけだとすると別《べつ》にこの場《ば》の二人《ふたり》の行為《こうい》は過失《かしつ》ではないのだが、この事件《じけん》の最《もっと》も最初《さいしょ》に、二人《ふたり》の意志《いし》とは全《まった》く関係《かんけい》のないデアテルミイの振動《しんどう》がリカ子《こ》の身体《からだ》を振動《しんどう》させていたということが、二人《ふたり》の運命《うんめい》をひき裂《さ》く原因《げんいん》となって黙々《もくもく》と横《よこ》たわっていたのである。後《あと》で気《き》づいたのだがこのラジオレーヤーと同様《どうよう》な機械《きかい》は私《わたし》がリカ子《こ》の部屋《へや》へいく前《まえ》から、リカ子《こ》は最早《もはや》いくらかの腹痛《ふくつう》を自分《じぶん》で癒《なお》すためにかけていたのだ。だから彼女《かのじょ》がその途中《とちゅう》で機械《きかい》の狂《くる》いを直《なお》そうとして私《わたし》を呼《よ》びに来《き》た時《とき》には、もう彼女《かのじょ》の身体《からだ》は十|分《ぶん》刺戟《しげき》を受《う》けて既《すで》に過失《かしつ》に侵《おか》されていたのである。しかし、私《わたし》は彼女《かのじょ》のその時《とき》の興奮《こうふん》がただ私《わたし》の為《ため》ばかりだと長《なが》い間《あいだ》思《おも》っていて、彼女《かのじょ》がその時《とき》そのようにも私《わたし》を愛《あい》した態度《たいど》の中《なか》には、機械《きかい》が恐《おそ》らくその大半《たいはん》をこっそり占《し》めていようなどとは思《おも》っていなかった。私《わたし》はそれからというもの夜盗《やとう》のように家人《かじん》の隙《すき》を狙《ねら》うと同時《どうじ》にリカ子《こ》と結婚《けっこん》する準備《じゅんび》ばかりに急《いそ》ぎ出《だ》した。私《わたし》はそのことをQに話《はな》して良《よ》いものかどうかと初《はじ》め暫《しばら》くの間《あいだ》は迷《まよ》っていたのだが、とうとうそれを切《き》り出《だ》した。すると、Qは暫《しばら》く黙《だま》っていてから私《わたし》の顔《かお》を見《み》て、大丈夫《だいじょうぶ》かと一言《ひとこと》いった。私《わたし》はQが黙《だま》っているのはQがリカ子《こ》を愛《あい》していたからに違《ちが》いないと思《おも》ってひやりとしていた所《ところ》なので、Qがそういうと初《はじ》めてQは私《わたし》の生活《せいかつ》を心配《しんぱい》していてくれたが為《ため》に黙《だま》っていたのだと気《き》がついた。私《わたし》はQに感謝《かんしゃ》をし、Qにもいわずリカ子《こ》とそういう状態《じょうたい》になったのも実《じつ》は君《きみ》が余《あま》り私《わたし》を看視《かんし》していてくれなかったからだというと、それなら看視《かんし》をしなくて良《よ》かったといってQは笑《わら》いながら、もしこれから二人《ふたり》の生活《せいかつ》が困《こま》れば遠慮《えんりょ》をせずにいうようと迄《まで》励《はげ》ましてくれた。そこで私達《わたしたち》は結婚《けっこん》すると同時《どうじ》に私《わたし》は地質学協会《ちしつがくきょうかい》に勤《つと》めQは大学院《だいがくいん》に残《のこ》るようになった。そうして私達《わたしたち》はその後《ご》三|年《ねん》の間《あいだ》幸福《こうふく》であった。Qとの穏《おだ》やかな交際《こうさい》が続《つづ》けられた。私《わたし》は第《だい》三|紀層《きそう》の調査《ちょうさ》にかかるとQはますます深《ふか》く層位学《そういがく》の方《ほう》へ這入《はい》っていった。しかし、このわれわれの交友期間《こうゆうきかん》の静《しず》けさは河水《かすい》を挟《はさ》んで屹立《きつりつ》している岩石《がんせき》のようなものであった。水《みず》は絶《た》えず流《なが》れていたのだ。私《わたし》をも感動《かんどう》せしめるQの美徳《びとく》と才能《さいのう》とは二人《ふたり》の間《あいだ》を昔《むかし》から流《なが》れていたリカ子《こ》にだけ映《うつ》らない筈《はず》はないのである。間《ま》もなくリカ子《こ》の心《こころ》はQの幻想《げんそう》の為《ため》に日々《ひび》私《わたし》を忘《わす》れ出《だ》した。これをいい換《か》えると、その最初《さいしょ》に私《わたし》に身《み》を与《あた》えたリカ子《こ》の中《なか》からデアテルミイの効力《こうりょく》がだんだん影《かげ》を潜《ひそ》めて来始《きはじ》めたのだ。機械《きかい》と一|緒《しょ》になって彼女《かのじょ》を征服《せいふく》していた私《わたし》が機械《きかい》から去《さ》られると、それに代《かわ》るべき何《なに》ものかを彼女《かのじょ》に与《あた》えなければならなくなったのだ。しかし、私《わたし》にはそれが何《なに》ものであるか分《わか》らなかった。初《はじ》めの間《あいだ》は私《わたし》はリカ子《こ》のそれが頭脳《ずのう》の成長《せいちょう》だと思《おも》って忍《しの》んでいた。所《ところ》が彼女《かのじょ》はだんだん私《わたし》を突《つ》き除《の》けるばかりではない。一言《ひとこと》の争《あらそ》いにも彼女《かのじょ》はしまいにQの名《な》を出《だ》し、独《ひと》りいる時《とき》は絶《た》えず紙《かみ》の上《うえ》へQの名《な》を書《か》き、睡眠《すいみん》の時《とき》の囈言《うわごと》にもQの名《な》を呼《よ》び始《はじ》めた。私《わたし》は彼女《かのじょ》のそうすることには嫉妬《しっと》を感《かん》じないばかりか良人《おっと》の友人《ゆうじん》を愛《あい》することは最《もっと》も良人《おっと》を愛《あい》する証拠《しょうこ》であり最《もっと》も気品《きひん》のある礼譲《れいじょう》だとさえ思《おも》っていた。するとリカ子《こ》は私《わたし》のこの快活《かいかつ》な礼節《れいせつ》に対《たい》して一|層《そう》彼女《かのじょ》のその礼節《れいせつ》を適用《てきよう》させ、終《しま》いにはQは自分《じぶん》を私《わたし》が彼女《かのじょ》を愛《あい》していたよりも愛《あい》していたといい始《はじ》めた。そういわれると私《わたし》は何《なに》もいうことが出来《でき》なくなり、
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