リカ子《こ》から考《かんが》えれば考《かんが》えようによってはそれに違《ちが》いないと思《おも》い出《だ》し、それがしばしば続《つづ》けられると或《ある》いはそれはそうであったのかもしれないと思《おも》い、なお彼女《かのじょ》にいわれるとそれほど彼女《かのじょ》のいう所《ところ》を見《み》てもこれは必《かなら》ずQの方《ほう》が私《わたし》よりも愛《あい》していたのだと思《おも》うようにまで進《すす》んで来《き》た。すると私《わたし》は結婚《けっこん》する前《まえ》Qに打《う》ちあけた際《さい》のQの暫《しばら》くの沈黙《ちんもく》を思《おも》い出《だ》した。そのとき私《わたし》はそれはQが私《わたし》のことを心配《しんぱい》していたからだと喜《よろこ》んだことが実《じつ》は反対《はんたい》で、Qは悲《かな》しみのあまり黙《だま》ってしまい、私《わたし》に気附《きづ》かれたと思《おも》うやいなや急《きゅう》に私《わたし》への心配《しんぱい》さを表《あらわ》したのではないかと思《おも》うようになった。そう思《おも》うともう私《わたし》は俄《にわか》にリカ子《こ》がそのときから自分《じぶん》の妻《つま》だという気《き》がしなくなった。私《わたし》の生活《せいかつ》は根柢《こんてい》から逆《さか》さまになり始《はじ》めた。今《いま》まで私《わたし》はリカ子《こ》が私《わたし》を愛《あい》していたから結婚《けっこん》したのだと思《おも》っていたのもそれも私《わたし》だけの考《かんが》えで、実《じつ》はリカ子《こ》もQを愛《あい》しており、Qもリカ子《こ》を愛《あい》していたのだと分《わか》ってみると、私《わたし》の狼狽《ろうばい》の仕方《しかた》はもう穴《あな》ばかり捜《さが》して隠《かく》れることよりなくなり出《だ》した。かつてのQの美徳《びとく》のためになされた私達《わたしたち》の結婚《けっこん》が、これほども私《わたし》に不幸《ふこう》を与《あた》えたことを私《わたし》は歎《なげ》き続《つづ》けた。結婚《けっこん》とは負《ま》けたことだと思《おも》いだしたのもそのときからだ。しかし、私《わたし》はQがひそかに愛《あい》していたリカ子《こ》をQから最初《さいしょ》に奪《うば》ったのだと思《おも》うと、私《わたし》よりも日々《ひび》歎《なげ》き続《つづ》けていたにちがいないQの忍耐《にんたい》に対《たい》して、再《ふたた》び私《わたし》は今《いま》の私《わたし》の小《ちい》さい忍耐《にんたい》をもって対立《たいりつ》させねばならなかった。この奇怪《きかい》な忍悔《にんかい》の競争《きょうそう》の中《なか》で、リカ子《こ》はますます私《わたし》と結婚《けっこん》したことの後悔《こうかい》の重《おも》さのために縮《ちぢ》んで来《き》た。私《わたし》は彼女《かのじょ》の日々《ひび》の容子《ようす》をもう見《み》るに忍《しの》びなかったし、私自身《わたしじしん》ももうそれ以上《いじょう》このままの生活《せいかつ》には耐《た》えることが出来《でき》なくなった。或《あ》る日《ひ》私《わたし》は思《おも》いきってリカ子《こ》にQの所《ところ》へ行《ゆ》くようにとすすめてみた。一|度《ど》人《ひと》の妻《つま》になった身《み》だとはいえ、人《ひと》の妻《つま》などにさせたのはQではないか、しかもおのれの負《お》うべき石《いし》を私《わたし》に負《お》わしたのだ。私《わたし》がその石《いし》を再《ふたた》びQに返《かえ》したとて彼《かれ》が私《わたし》に怒《おこ》ることは出来《でき》ないであろうと私《わたし》がいうと、リカ子《こ》は顔《かお》を赧《あか》らめながら「行《ゆ》く」といった。そこで私《わたし》はリカ子《こ》をQの家《いえ》の門《もん》まで送《おく》ってゆきながら、途々《みちみち》、また私《わたし》はQとの「忍耐《にんたい》」の競争《きょうそう》においても彼《かれ》から敗《ま》かされたことに気《き》がついた。しかし、それからの私《わたし》ひとりの生活《せいかつ》の寂《さび》しさは彼女《かのじょ》を負《お》っていた日《ひ》の「忍耐《にんたい》」とは比《くら》べものにならなかった。殊《こと》にときどきリカ子《こ》はひとり私《わたし》の所《ところ》へ遊《あそ》びに来《く》るのだ。私《わたし》はリカ子《こ》に来《く》るなといっても是非《ぜひ》Qが私《わたし》の所《ところ》へゆけといってきかないという。それならなお来《き》てはいけないではないかというと、でも私《わたし》も来《き》てみたいのだと彼女《かのじょ》はいう。私《わたし》が来《く》るなといいQが行《ゆ》けというこの虔《つつ》ましやかな美徳《びとく》の点《てん》においてさえも、猶且《なおか》つ行《ゆ》けとすすめるQの方《ほう》が私《わたし》よりも優《すぐ》れているのだ。美徳《びとく》の悪徳《あくとく》、私《わたし》はリカ子《こ》の顔《かお》を見《み》せられる度毎《たびごと》に、私《わたし》とQとの美徳《びとく》を押《お》し合《あ》う悪徳《あくとく》について考《かんが》えずにはいられなかった。しかもリカ子《こ》は私《わたし》を愛《あい》していないにも拘《かかわ》らず、私《わたし》を憐《あわ》れむ姿《すがた》に愛情《あいじょう》の大《おお》きさをさえ含《ふく》めなければならぬのだ。私《わたし》は私《わたし》でQとリカ子《こ》とから受《う》けた過去《かこ》の過度《かど》の恩愛《おんあい》に対《たい》しても彼女《かのじょ》のしたいままなる行状《ぎょうじょう》を赦《ゆる》していなければならない。私《わたし》は彼等《かれら》二人《ふたり》のいかなる点《てん》に怒《いか》る必要《ひつよう》があるのだろう。ただ私《わたし》にとって惨酷《ざんこく》なのはQとリカ子《こ》との私《わたし》を憐《あわれ》む愛情《あいじょう》だけだ。それも彼等《かれら》にとっては私《わたし》を憐《あわ》れまないより憐《あわ》れむ方《ほう》が私《わたし》を尊重《そんちょう》することになっているのは分《わか》っている。しかも、彼等《かれら》にとって私《わたし》を憐《あわ》れみ続《つづ》けることはなお一|層《そう》の苦痛《くつう》を続《つづ》けていることになっているのだ。ここに不用《ふよう》なものが一つある。――私《わたし》は或《あ》る日《ひ》それをリカ子《こ》に説明《せつめい》してQにいうように彼女《かのじょ》にいった。すると彼女《かのじょ》のいうにはそんな取越苦労《とりこしくろう》はあなたたちのすることではなくって、私《わたし》ひとりでしていれば良《よ》いのだという。それならもう来《き》て貰《もら》わない方《ほう》が結構《けっこう》だというと、私《わたし》はあなたがやはり好《す》きなんだから仕方《しかた》がない。もう暫《しばら》くすっかり嫌《きら》いになるまで逢《あ》っていてくれと頼《たの》むのだ。あまりに虫《むし》が良《よ》く、あまりにそれは勝手《かって》すぎるではないかと私《わたし》がいっても、こんなにしたのはそれなら二人《ふたり》の中《うち》の誰《だれ》だという。そういわれればそれは矢張《やは》り私《わたし》にちがいないのだし、私《わたし》とても彼女《かのじょ》に逢《あ》わない日《ひ》が続《つづ》くと、その間《あいだ》は殆《ほとん》どリカ子《こ》の幻想《げんそう》ばかりで埋《うず》まってしまうのだ。これでは困《こま》る、どうかしようと思《おも》ってもそのうちにわれながら浅《あさ》ましくなるほど元気《げんき》がすっかりなくなってぼんやりする。私《わたし》はリカ子《こ》に私《わたし》の寂《さび》しさを告《つ》げることが出来《でき》ないばかりではない。彼女《かのじょ》に逢《あ》うとただ一|途《ず》に彼女《かのじょ》に逢《あ》いたくないことばかりをいわねばならぬのだ。彼女《かのじょ》もそれを知《し》っていて、私《わたし》に逢《あ》いに来《く》ると逢《あ》いたくなったとはいわずにQの美点《びてん》ばかりをいうのである。私《わたし》は彼女《かのじょ》からQの悪口《あっこう》を聞《き》くよりも二人《ふたり》で認《みと》めた美点《びてん》をなお持続《じぞく》させて喜《よろこ》ぶ方《ほう》が良《よ》いのだが、しかしだんだんQを賞《ほ》めているリカ子《こ》の言葉《ことば》が私《わたし》の性格《せいかく》に喜《よろこ》びを与《あた》えるためだけだと感《かん》じ出《だ》した。何《なに》か彼女《かのじょ》のうちには私《わたし》の思《おも》っていること以外《いがい》の新《あたら》しい変化《へんか》が起《おこ》っているのではないか。そう私《わたし》が思《おも》ってから暫《しばら》くしてからであった。地質学者《ちしつがくしゃ》の雑誌《ざっし》の上《うえ》で続《つづ》けていたQとAとの介殻類《かいがらるい》の化石《かせき》に関《かん》する論争《ろんそう》が激《はげ》しくなった。それは私《わたし》のQを怨《うら》む心《こころ》が手伝《てつだ》わなくとも、その豊富《ほうふ》な材料《ざいりょう》の帰納的《きのうてき》な整理《せいり》においても推理《すいり》を貫《つらぬ》く原則《げんそく》の確実《かくじつ》な使用法《しようほう》においても明《あき》らかにQの方《ほう》の負《ま》けであった。終《しま》いにはQはAから独逸語《ドイツご》のPerefactenよりFossilの方《ほう》が化石《かせき》の意味《いみ》には適当《てきとう》しているからそれを使《つか》え、Fossilはラテン語《ご》の掘《ほ》り出《だ》すことを意味《いみ》するFossereからの転化《てんか》で古生物《こせいぶつ》と訳《やく》する位《ぐらい》は誰《だれ》でも知《し》っていることであろうとまでいわれていた。勿論《もちろん》私《わたし》はAのこの傲慢《ごうまん》な態度《たいど》には腹《はら》を立《た》てたがそれより差《さ》し詰《づ》めQの敗北《はいぼく》には同情《どうじょう》せざるを得《え》なかった。定《さだ》めしQは日々《にちにち》不快《ふかい》な日《ひ》を続《つづ》けていることであろうと思《おも》うとその傍《そば》にいるリカ子《こ》の顔色《かおいろ》が眼《め》に見《み》えるのだ。彼女《かのじょ》の容子《ようす》はQの怏々《おうおう》として日々《にちにち》の不快《ふかい》な心《こころ》の波《なみ》を伝《つた》えて私《わたし》へ向《むか》って打《う》ち寄《よ》せて来《き》ているのだ。私《わたし》はリカ子《こ》を見《み》ているとQの敗北《はいぼく》した打撃《だげき》の度合《どあい》までも感《かん》じることが出来《でき》始《はじ》めた。しかもリカ子《こ》はQがAよりはるかに劣《おと》った人物《じんぶつ》だと知《し》り出《だ》した動揺《どうよう》さえ私《わたし》は彼女《かのじょ》がQを賞《ほ》める言葉《ことば》の裏《うら》から嗅《か》ぎつけた。私《わたし》は彼女《かのじょ》の一|番《ばん》嫌《きら》いな所《ところ》はそこだ。自分《じぶん》の良人《おっと》の敗北《はいぼく》に対《たい》して動揺《どうよう》する彼女《かのじょ》の新《あたら》しい醜悪《しゅうあく》さ、この醜悪《しゅうあく》さは女《おんな》の最《もっと》も野蛮《やばん》な兇悪《きょうあく》さにすぎない。しかし、あくまでリカ子《こ》のこの兇悪《きょうあく》さと闘《たたか》いながら、なお日々《にちにち》不断《ふだん》に逞《たくま》しいAに打《う》ち負《ま》かされ続《つづ》けていかねばならぬであろうQの生涯《しょうがい》を考《かんが》えると、私《わたし》はQが一|番《ばん》誰《だれ》よりも悲惨《ひさん》な男《おとこ》に思《おも》われて来《き》た。もうリカ子《こ》とQの間《あいだ》には恐《おそ》らく陽《ひ》の目《め》のさすことはないであろう。もしQがリカ子《こ》をAに渡《わた》さぬ限《かぎ》り。――しかし、Qはそこが私《わたし》と違《ちが》っ
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