だけは思つた。そして妙に気にかゝつてならなかつた。(食ひたいな)
 その時遠くの方から馬の嘶声が聞えた。彼は刺されたやうに首をあげて耳を立てた。
(おや! あれや牝馬の声だぞ。)もう橙のことを捨てたやうに忘れて了つて、猶じつと聞いてゐた。(牝馬だ。牝馬だ)迅速な勢でギユーと何かしら背骨を伝つて下へ走つた。彼は前足を豆台の上へ乗つかけて飛び出ようとした。両側の縄がピンと張つて口をウンと云ふ程引いた。で彼は直ぐ足を落ろした。頭の中がガーンと鳴つてゐた。狂ひ出しさうになつた。で後足に力を込めて、無茶苦茶に床板を蹶つた。社務所から男が来て彼を鎮めた。それでも未だ馬舎の中で立ち上つたりした。頭がはつきりした時には、牝馬の嘶声が聞えなかつた。彼はその方にじつと向いてゐた。
 淡藍の遠山がかすんでゐた。海には白帆が二三点見えた。暖い陽が総てのものゝ上に愉快げに見える。子供の喇叭を吹く音が聞えて来た。入道雲が動かない。
(何処で嘶いたのだらう。)
 彼の前には綺麗な若い娘と白髪を後頭で刈り切つた老婆とが立つてゐた。老婆は財布から二銭玉を出して、机の上にのせて、一升の豆を豆台に投げた。それから両手で何か
前へ 次へ
全7ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング