兒。やがて、最後の光線とともに萬目すべてぴたりと音を消した。動くものは何物もなく、眼界一人の人物とてゐない。ただ手折つて來た花が縁側の上に凋れて影を映してゐるばかり。

 夕食に出た茄子の燒きがどこかで見覺えのある燒き方だと思つて覗いてゐると、それは晝食に出されたこの宿の茄子であつた。押しよせて來てゐた群青のために、私は早や過去をそんなに激しく忘れてゐたのであらうか。沈默と靜けさの中で動いてゐた精神はこれすべて、色彩の祕密の底を潛つてゐたのであらうか。――ふと氣附くと、朝から鳴きつづけて來た一疋の小蟲がまだ鳴きつづけてやまない。巨大な滿月が秋草の中から昇つて來た。沈んだ湖面は再び月に向つて輝きながら傾いた。私は膝を崩して杯を上げた。女は酒を注いだ。夜になつて峠を越えて來た旅人が隣室へ這入つて來た。私は女に、この山の頂で希望を捨てる旅人の數を尋ねてみた。すると、女は、彼女が來てからこの二ヶ月の間に三つの自殺者のあつた話をし始めた。

 わたくしの來た三日目に、書生さんが一人來て、アダリンを飮んで二階で死にましたが、それから二週間目に、また一人書生さんがいらつしやいまして、あの左の山の中で
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