に向つて押しよせて來る波紋。かの白い一疋の蝶は、まだいつまでも山と云はず森と云はず雲と云はず、ひらひら不安な姿で縱横無盡に活溌に暴れつづけてゐる。ふと見ると、高い梢の白い花が日光を受けて明るく輝いたと思ふ間に、忽ち日に影つてまたさびれる。厨の方から料理する庖丁の音が水音に混つて聞えて來る。
花魁草の花の中に蹲みながら、暮れかかつていく湖を眺めてゐる私の傍に、女は廊下を降りて來て立つた。しかし、私にはもう女の姿も大きな山脈も、眼の前に垂れ下つた淡紅色の花瓣に流れた微細な水脈も、大小の比較がかき消えて、かすかに呼吸してゐる自分の胸もとの襟のゆるやかに動くのが眼につくだけだ。白く細つそりした雄蕋や、入り組んだ雌蕋の集合した花花のその向ふでは、今や日没の光線に金色に輝いた湖面が靜まり返つて傾き始めた。キャムプの草の上で焚火をしてゐる若者の歌ふ青春の唄が、透明な空氣を搖り動かして流れて來る。花の中に首をさし入れてゐる私の顏の周圍は、ほの明るく火を入れたやうに色めき立ち、草笛の音のやうにうす甘く眠つてゐる官能を激しく呼び醒して少年の日をめくる。折から撥ね上る水面の魚。齒をむいて驅け昇つて來る童
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