四肢をときどき慄はして眠つてゐる犬、腹を干した岸のボート、ぼつりと一つ芝生の上に見えるキャムプ。森の中に生えてゐる丈長い蘆。白い樹間を絡りながら流れる煙。淡紅色に塊つた花魁《おいらん》草の花の一群。絶えず水甕へ落ちる水の音。――私は身體の中から都會の濁りが空の中へ流れ出す疲れをぐつたりと感じていつた。希望はもうここでは何ものも起らない。私はただ睡るばかりだ。

 湖の向ふに見える小舍は氷屋《ひや》でございますよ。湖の番人がゐるのです。と女は私の質問に答へて云つた。私は湖面に一つ浮んでゐる白い箱を指差してまた訊ねた。あれは燈籠流しの殘り物です。もう一週間早くいらつしやれば御覽になれましたのにといふ。燈籠流しの夜には湖面へ五百ばかりの燈籠を浮べる。それが風の間に間に湖いつぱいに漂ひ流れて沈んでいく。――私は女の唇から露れる齒の美しさを眺めながら、この婦人の山上の望みは何かと訊ねたかつた。聲は細細としてゐて抑揚は何もない。――突如、湖面に落ちる雨の波紋。ほの暗い森の中から一聲唸りを上げたと見る間に、眠るがやうに沈んでいくモーターの音。飛び立つ小鳥の足もとから木の葉に辷り落ちる粗い水滴。微風に
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