の掌の下から悲鳴が聞える。「まア、辛抱して、行つてやれ。」と私は云ふ。しかし、こんなときでも涙といふものは何となく出かかるものだ。
山頂へ着いた。自動車でまた高原の中を行く。私のステッキを持つた青年とは別別の車になつた。しかし、やがて湖が鮮明な色で草の中から現れた。車から降りると私一人日歸りの皆と別れて森を通り、ただ一軒よりない宿屋へ行つた。農家とどこも變らぬ宿屋だが、湖の岸まで芝生が一町もなだらかに下つてゐる。縁側に坐つて湖を見ると、すでに山頂にゐるために榛名富士と云つても對岸の小山にすぎない。湖は人家を教軒湖岸に散在させた周圍一里の圓形である。動くものはと見ると、ただ雲の團塊が徐徐に湖面の上を移行してゐるだけである。音はと耳を立てると、朝から窓にもたれて縫物をしてゐる宿の女中の、ほつとかすかに洩らした吐息だけだ。もう早や私は死に接したやうなものだ。
若い女が茶を持つて私の傍に來た。色は白く眼は大きくて美しい。髮も豐で襟もとに品位があり、言葉も云はず笑顏も見せない。默つて來てまた默つて去つていく。――森の中から乘馬の青年が靜に湖を見降しながら通つていつた。木の枝をへし折る音、
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