れは、それから後に移動した樣々な地點の押し重なつて來る眺望の底に沈み込んで、掻き分けても掻き分けても、ふと掴んだと思ふ間に早や逸脱してしまつて停止をしない。私はもうここへ來てから長年暮しつづけて來たのと同樣である。しかし、この忘却を拂ひのけやうとする努力は、私にとつてはこの山上の最初の貴重な印象に對する感謝であつた。
翌日になると、また風景は昨日とどこも變らなかつた。朝からあたりは森閑としてゐて、鴨居にぶらぶら下つてゐる簑蟲を眺めたり、少女の髮の白い割れ目が草の中を登つて來るのや、木の切株にかかつてゐる桶の底が何囘となく眼についたり、いつ見ても寢そべつてゐて少しも動かないと思つてゐた犬が、見る度に方角の全く違つたところで、いつも同じ格好で寢てゐたりしてゐることなどに氣がつくだけだ。さうして、物音といつては、どこかでときどき低く陰氣にほそぼそと呟く聲と、首を少し廻してみても、もう襟もとで擦れるぢりぢりした髮の毛の音が聞えるだけで、東屋の椅子の上で頭に手拭を乘せた老人が、起きてゐるのか寢てゐるのか分らぬ喰っついたやうな表情で、いつまでも動かずにぢつとしてゐるのが、欠伸を大きくする度に思はずこちらも釣り込まれて欠伸をする。私はもう湖面を見るのは倦き倦きして、ふと跨ぐ水溜りに映つてゐる雲の色に立ち停るまでになつて來た。しかし、私はなほ半日もつづけて庭の上を這ひ廻つてゐる蟻や、妙に大きく見え出して來た蛙を眺めたりしてゐるうちに、つひには言葉を云ふ氣がすつかりなくなつて、女に一口物を頼むに何事か一大事件を報告するやうな羞恥を感じるやうになり始めて來るのであつた。私は胸を押しつけて來る退屈な苦しさに、もう興奮を求めて歩き廻らざるを得なかつた。私は裏へ廻ると、日のささぬ軒下のじめじめした青黴に眺め入つたり、金網の中から覗いてゐる淡紅色の兎の耳の中の奇妙ないぼいぼに見入つたり、空を切つて大きく張り渡つた蜘蛛の巣の巧緻な形に驚いたり、水甕の底深く沈んでゐる鯉の美事な悠々たる鱗の端正さに、我を忘れる樂しさを感じようとした。私は今にして隣室の男の女中をからかか續けた心理や、世の終末をこの地に定めた青年たちの心理がだんだん眞近に響いてゐるのを感じて來た。かういふときには、ふと山中の腰かけ小舍の中で客に茶を出す一人の女の顏に塗られた鈍重な白粉が、ひどく山野の自然に對して憤りを感じた反抗のや
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