うに、際立つて嶮しく尖鋭に見えて來る。

 しかし、再び私は思ひがけない興奮に接することが出來始めた。私は湖の岸を廻つてゐる道を左の方へ歩いていつた。この道は道とはいへ長らく人が通らぬために、巾一間半もあるにもかかわらず、荒れはてて茫々とした草原に見えてゐたのである。進むにしたがつて、すぐ眞下に迫つてゐる湖が、身を沒する苺の垣や茅や葡萄の蔓のために全く見えない。山面を遠くから雲のやうに白く棚曳き降りて來た獨活《うど》の花の大群生が、湖面にまで雪崩れ込んでゐる裾を、黄白の野菊や萩、肉色の虎杖《いたどり》の花、女郎花と、それに混じた淡紫の一群の花の、うるひ、薊《あざみ》、龍膽、とりかぶと、みやまおだまき、しきんからまつ、――道はだんだん丈なす花のトンネルに變つて來る。花の底で波がかすかにごぼりごぼりと音を立てる。苺のとげに片袖が觸れるたびに、爆け切つた實がぼろぼろとこぼれ落ちる。絶えず唸りながら花から花へと馳けめぐつてゐる蜂の群が、都會の中央で擦れ違ふ自動車の爆音のやうに喧騷を極めて來て、むせ返つて來る花の強烈な匂ひにふらふら眩暈を感じ出す。進む鼻の前で、空中に浮き上つたままぴたりと停止してゐる蜻蛉。花を蹴つて足もとから飛び立つ鳥の群。ぴしりと脛を叩くおばこの固い紐の花。無數の小蜂を舞ひ込めて襲ふ花の匂ひの隙間から、突如として閃くやうに旋囘して來る熊蜂の鋭い風。腐つた電柱の頂きまで這ひ上つてゐる蔓草の白い花。

 私は急いで花叢を拔けると湖の見える氷小屋の傍で休息した。花叢の中のあまりな喧騷さに私はもう疲勞を感じた。谷底の花の中を通る旅人がガスにあてられ、一人も無事に歸つたもののない今もなほある奧羽の山の話を私は思ひ起しながら、私も早や官感に異常な鈍さを感じて首の周圍や顏の皮膚を幾囘も摩擦するのであつた。私は日に日に都會に集つてゐる敏感な人間が、肉體に備へられた自身の完全な防音器のために、却つて一層聾のやうになり始め、その逆に鈍感な肉體が、不完全な防音器官の障害で一層物音に敏感になつてゐる近ごろの變異な徴候を、今この身に滲み渡る休息の靜けさの中から新鮮に感じて來た。

 その翌日、私はもう目的地へ向つて立たねばならなかつた。しかし、起きて障子の破れ目から外を覗くと、外は見渡す限り一面の深い霧であつた。私は部屋の障子を開けたまま、火鉢に火を入れさせ、見倦きた昨日の風景の一
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