榛名
横光利一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)褞袍《どてら》を
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)蠅[#「蠅」は底本では「繩」]
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眞夏の日中だのに褞袍《どてら》を着て、その上からまだ毛絲の肩掛を首に卷いた男が、ふらふら汽車の中に這入つて來た。顏は青ざめ、ひよろけながら空席を見つけると、どつと横に倒れた。後からついて來た妻女が氷嚢を男の額にあてて、默つて周圍の客の顏を眺めてゐる。あれはもう助からぬと私は思つた。私は良人の死顏を見たときに泣く妻女の姿をふと頭に浮べたが、急いでもみ消すやうに横を見た。もう私は考へたくはない。私は考へることからせめて一週間遁れたいと思つて一人早く都會を逃げ出て來たのだが、後から遲れて子供たちが私の後を追つて來ることになつてゐる。私は九ヶ月間つづけて來た仕事を昨夜し終へたばかりなので、何か大過を犯した後のやうな、何とも取り返しのつかぬことをした棄鉢氣味もあつたが、まだ人に知られてゐないといふ餘裕ある現状であつたから、なほ考へたくはないのである。それに疲勞も極限にまでいつてゐるのだ。
私の横で老人の代議士が衆議院へ來た手紙類の束を切つて、一つづつ丁寧に讀んでゐた。すると、汽車がある驛に着いた。代議士は窓から外を見て、急に手紙類をかかへたまま降りていつた。私は自分の降りる驛はまだ遠かつたが、突然その代議士の後からついて降りた。代議士は立派な自動車に乘つた。私も一番綺麗な自動車を撰ぶと代議士の後から追つていつた。私は彼の後を追ふ自分に何の特別な目的もなかつたが、どこでこの代議士と別れるやうになるものかと、ただそれだけが興味であつた。自動車は宿場町を過ぎると廣い坂道を山の湯へ向つていつた。けれども、もう私はいつの間にか代議士のことなど忘れてゐた。「ああ、忘れる、これほど健康なことはあつたのか。」かう思ふ後から、見る見る秋草に滿ち膨れた山の斜面が眼下に向つて摺り落ちていつた。
伊香保の夜はもう書くまい。明日は榛名だ。私はここはまだ初めてのところだが、友人のSがあるとき誰かに歎聲を洩しながら、何事かしきりに推賞してゐる聲をふと聞いたので、何だと横から訊くと、榛名だと言下に答へた記憶を思ひ起す。私は混雜した宿の窓からはるかな山頂の榛名を仰ぐと、榛名は雲の中に隱れてゐる。私はまだ
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