つても、私はただ大きな私の影が湖面の上に倒れかかつて、右から照り輝いてゐる滿月の光りと爭つてゐるのを見ただけである。そのとき、一疋の蟋蟀がはつと滿月の中から飛び込んで來たかと思ふと、冷たく私の右側の鼻柱を蹴りつけて見えなくなつた。

 私は女と一緒に波打際へ降りていつた。女は頬笑みながら悠然として云つた。――醉つぱらつてゐたつて、あの人たち沈んでしまふやうな人ぢやありませんわ。あの大きな聲で笑ふ人は、あそこに見える料理屋の主人ですから、きつとまた思ひ返してお酒を飮みに行つたんでせう。隣りのお客さんは下の町の役人さんで、ときどきいらつしやる方なんですけど、あの方よりまだよくからかふ方がお仲間の中にいらつしやるんですよ。いつもはその方ともう一人別の方と、三人でいらつしやるんですけど、さうしたら、家の中はたいへんなんでございますよ。きつと明日の夜はその方たち遲れていらつしやるんでせうけど、あたくしたち、もう眠るところがなくなつてしまひますわ。――女のいふことを聞いてゐると、明日來る客たちは、この前に來たときには、女らが寢やうとすると女中部屋へ追ひかけて來る。物置で寢てゐると、今度は物置へ來る。そこで仕方がないので隣室の私の部屋の押入で寢てゐたら、たうとう搜しあてられずに夜が明けたさうである。

 私と女は波を消した渚に添つて歩いていつた。向日葵《ひまはり》が垂れた首のやうに砂の中に立つてゐた。寢ているキャムプの布の傍まで來かかると、女は思ひ出した數日前の出來事をまた話した。――もう一週間にもなりますかしら。それは綺麗な明るい奧さんが二階のお部屋に一人で來ていらつしやいましたんですが、丁度こんなお月夜の晩、あたくしをお誘ひになりましたので、二人で向ふ岸にゐる學生さんたちのキャムプを見に、ボートで出かけて行きましたの。さうしましたら、向ふへ上るとすぐに、先生が一人出ていらつしやいまして、今夜は學生を澤山つれて來てゐるんだから、すぐ歸つてくれつて叱るんでございますよ。あの向ふ岸へは誰が行かうと勝手ですのに、そのときはそんなことも云つてゐられませんで歸つて來ましたが、でも、ここにゐると淋しくなるので、つい見に行きたくなるのも無理はないとあたくし思ひましたのでございますよ。

 眠れぬままに、私はここへ來て最初に腰を降ろしたときの眺望の印象を思ひ起さうとつとめてみた。しかし、もうそ
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