があるならば、コンミニズム文学は、文学の圏内に於ては、最早やいかなる発展能力をも持ち得ないと云わなければならぬ。

 われわれの文学は、文学形式として、発展能力を持たない限り、一大文学とはなり得ない。われわれは今は文学を問題としているのだ。社会を問題としているのではない。

 われわれが社会を問題とせずして、文学を問題としているとき、最早やわれわれには、コンミニズム文学は、問題から抛擲《ほうてき》されるべき問題たる素質を持って来たのである。そうして、われわれの文学の新しき問題たるべきことこそは、彼らに代って起るべき充分に文学を問題とした社会主義文学でなければならぬ。かかる社会主義的な文学は、当然、正統な弁証法的発展段階のもとに成長して来た、新感覚派文学の中から起るべき運命を持っている。

 しかしながら、次に起るべき新しき文学は、新感覚派の中から発生した社会主義文学のみではない。何故なら、われわれの社会機構は、いまだ資本主義の一大勢力のもとにあるからだ。いかにわれわれが、拒否しようとも、資本主義の存在していることは事実である。此の資本主義の存在している限り、それは仮令《たとえ》、排撃せ
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