た文学であるからだ。

 しかしながら、コンミニズム文学のみが、ひとり唯物論的文学では決してない。それなら、他にいかなる唯物論的文学が存在するか。それは、新感覚派文学、これ以外には、一つもなかった。

 もし新しき文学が、コンミニズム文学と新感覚派文学の二つであるとするならば、そのいずれが、果して文学の圏内に於て、より新しくして広闊《こうかつ》なる文学となるべきであろうか。

 われわれは考えねばならぬ。もしもコンミニズム文学が、曾《かつ》て用いた弁証法的考察を赦《ゆる》すならば、新感覚派文学はコンミニズム文学よりも、より以上に明確な弁証法的発展段階の上に、位置していると云うことをも認めなければならないであろう。何故なら、コンミニズム文学は、文学としての発展段階を無視したる文学形式であるからだ。彼らはその理想さえ主張出来得れば、曾て犯した唯心論的文学の古き様式をさえも、唯々諾々《いいだくだく》として受け入れているではないか。そこで、彼らは、文学の圏内に於ては、ただ単なる理想主義文学と何ら変る所はない。

 それで果して文学的活動は正当さを主張し得るのであろうか。もしそれで正当となすもの
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