あろう。
しかしながら、われわれは、資本主義を認め、社会主義を認めたごとく、左様に唯心論を認め、唯物論を認めることは出来ないのだ。何故なら、われわれは最早やここに至ると、文学を論じているのではなくして、自個《じこ》の世界の眺め方を論じているのだからである。われわれは個である以上、此の二つの唯心、唯物のいずれか一つをその認識力に従って、撰《えら》ばねばならぬ運命を持っている。
そこでわれわれは、唯心論を撰ぶべきか、唯物論を撰ぶべきかと云うことによって、われわれの世界の見方も変って来る。
もしわれわれが、唯心唯物のいずれかを撰ぶことによって、世界の見方が変るとすれば、われわれの文学的活動に於ける、此の二つの変った見方のいずれが、より新しき文学作品を作るであろうか。
それは少くとも唯物論もしくは唯物論的立場である。何ぜなら、唯心論及び唯心論的文学は、最早や完全に現れて了《しま》ったからである。
もしわれわれが、此の新しき唯物論的文学を、より新しき文学として認めるとすれば、われわれは当然、コンミニズム文学をも認めねばならぬ。何故なら、コンミニズム文学は、此の唯物論を基礎とし
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