らるべき文学であるとしても、新しき資本主義文学の発生するのも、また当然でなければならぬ。
しかし、もしそうして資本主義文学が新しく発生したとしても、彼らは唯物論的な観察精神をもった新感覚派文学でなくしては、無力である。
かくのごとく新感覚派文学は、いかなる文学の圏内からも、もし彼らが文学を問題としている限り、共通の問題とせらるべき、一つの確乎《かっこ》とした正統文学形式であるということには、先《ま》ず何人《なんぴと》も疑う必要はないであろう。そうして、此の新感覚派文学は、資本主義の時代であろうとも、共産主義の時代であろうとも、衰滅するべき必要は文学それ自身の衰弱を外にして、どこにあろうか。
底本:「昭和文学全集 第5巻」小学館
1986(昭和61)年12月1日初版第1刷発行
底本の親本:「定本横光利一全集」河出書房新社
1981(昭和56)年〜
初出:「新潮」
1928(昭和3)年2月号
入力:早津順子
校正:松永正敏
2004年1月30日作成
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