めた近代人には、古代人のこの心はどんなに響くものか、私は今の青年の心中に暗さを与えている得も云われぬ合理主義に、むしろ不合理を感じることしばしばあるのを思い、私の子供にこれではお前の時代は駄目になるぞと叱る思いで、次の歌を読みつづけた。
「移されしさまにも見えずわが池の白き睡蓮《すいれん》けさ咲きにけり」
加藤高次郎氏のこの歌集は題して「水蓮」という。これは高次郎氏の歌の師匠のつけた題であるが、この師は高次郎氏の「睡蓮」について睡を水としたまま次のように書いている。
「加藤君がかつて水蓮によって、人生をいたく教えられたことがあると言って、しみじみと洩《も》らされたことがあった。先年役所(刑務所)の庭に造った池に、所長さんの処から一株の水蓮を根分けしていただいたことがある。この水蓮は刑務所の池へ移されて来ても、少しもかわるところがない。やはり水蓮としての性を十分発揮してその可憐《かれん》なやさしい美しい花を開いているではないか。この水蓮の可憐な花の姿に加藤君は魂をうたれた。人間であればいかなる偉い人でも、刑務所へ移されると態度が変ってしまう。それなのに水蓮は移されたことも知らぬ顔に咲き
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